愚痴っぽくなる自分を諫める(禁止する)には?
今日は、「百匹目の猿」について少しばかり話してみようぞ。
宮崎県串間市の「幸島(こうじま)」と呼ばれる島で、1948年から京大の研究グループがニホンザルの観測を開始したんじゃ。
ある時一歳半の猿が砂のついたサツマイモを水で洗う行動を取った。
この行動は他の猿にも及び、それが臨界点(これを仮に100匹として)に達した時、200km以上離れた所の猿の群れにも広まったといわれておる。
無意識の力とはおそろしいもんでな。
何か一定の領域に想念が達すれば、その想念が無意識化…これは阿頼耶識(あらやしき)と言えばよいのかわからんが…。そこに達するようでな。あっという間にその情報が、全人類・全生命に伝わるんじゃ。
問題はその共通無意識層の情報のうち、良い情報が残ってるかは、情報が伝わった「その種」の「叡知」にかかっておるということなんじゃ。
現に猿のイモ洗いも、広まったものの、急速にその情報は葬り去られ、今はイモ洗いの現象はないといわれておる。
人間も然(しか)り。
今ここで人類が取り組まねばならん大仕事があるのじゃ。
それは愚痴を吐く人間を撲滅することじゃ。
愚痴とは、「言っても仕方のないことをぐだぐだ言って嘆くこと」を言う。
愚(おろ)かで物の道理に暗いことを闇に例えて、「愚痴の闇」と言ったりするのう。
この愚痴の塊(かたまり)が、全人類の無意識層に寄り集まり、縒(よ)り合わされた頃、インターネットが世に普及したとも言えるのう。
情報の多くは、どうでもよいものであったり、他者の根幹や尊厳を傷つけたり死滅させるのじゃ。
確かに様々な事や物が、便利になり有益になっておる。
だからといって人類が幸せになったとは言い難い。
「人間全体=人類」が幸せになるには、どうしたらよいか?を考えると、無意識の部分から愚痴をなくしてゆくことが、一番の近道なんじゃ。
全世界の人間の心の奥底に、コールタールのようにネバネバと貼(は)り付いておる「愚痴の想念」が、妬み種(ねたみぐさ=ねたみの元)となって、その結果、人類に争い事を引き起こしておる。
そこで全世界的に、不平・不満・泣きごとといった「愚痴」を、一掃したらどうじゃろうか?
さすれば、世界中がかなり住み易くなるのは間違いなしじゃ。