お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「知る」と「わかる」は違うって聞きました。何がどう違うの?

「知る」は、文字や視覚・音声情報を用いて、何かを頭の中にインプットすること。
そのため、講義をうけたり、人と話したり、本を読んだり、インターネットで調べたり・・することで、「知る」ことは可能となる。
一方、「わかる」というのは、「知った」ことを、自己の思考プロセスを通じて、追体験すること。
すなわち、自分自身の頭で考えることを意味する。

「知る」と「分かる」の違いは、森有正(もりありまさ)が定義する「経験と体験」における相違点と、酷似する。

森氏は、「経験」とは、自我から一旦離れた上で、ある事物に取り組む。
ここから時間や距離を措き、改めてその事物に対して価値を見出す努力を重ねる。
すると、一つの事実が、複雑性を伴う様々な意味合いを有している事が分かってくる・・というのだ。

一方、「体験」とは、「これはこう言うものだ・・!」と言う大前提を踏まえて物事と接するが故に、極めて限定的・画一的見え方しかできない。
そしてそれ以上の価値を見出すことができない・・というのだ。

数学の定理を知っていても、その定理が有する意味を深く理解することは、なかなか骨の折れる事。ならばどうすれば、「知る」事から「わかる」事へ移行できるのか・・。
その為には、ただ単に、講義を聞くだけ・本を読むだけではなく、常に「知った」ことを考え続け、それを誰かに説明し、「知った」ことを、自己の内奥で咀嚼・再構成し続けることじゃ。

このような努力にもかかわらず、「知った事」が、本当の意味で「わかって」いない場合も多い。
これに屈する事なく、「分かる」よう努力を続ける・・。
これこそが森有正の言う、「経験」であり、その「経験」が、その先にある「変貌」へ変容するプロセスだと言えよう。

然し乍らこの「知る」から「分かる」へのプロセス、「体験」から「経験」、そして経験が生み出す「変貌」への道のりを、日常的に訓練する事で、人間はより良く生きる事ができるのじゃ。

あと3日で平成が終わる。
戦争のない幸福な一面を有する平成の御代。
然し乍ら、日本人は真に「平和」の意味を、捕(とら)まえている・・と、いえるのじゃろうか?

日本人は平和も民主主義も、これを正当に定義すべき経験を欠いておるのではなかろうか?
もっと言えば、先の大戦における敗戦を、「体験」に落とし込み、真なる意味での「敗戦」として経験しなかった・・と、言えはしないじゃろうか?

令和の前に、自分自身の日常における「知る」と「わかる」、「体験」と「経験」について内省してみては如何かな?