お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

もうすぐ「天安門事件」の象徴的な6月4日がやって来ます。この事件について詳しく教えて!(1)

1989年1月8日に病死した周恩来(しゅうおんらい)。
彼を追悼する民衆が清明節に当たる4月5日、「天安門広場」に多数の花輪を捧げた。
これに対し当局は、花輪を撤去しようとして民衆との間に諍い(いさかい)が起こり、多数の死傷者と逮捕者がでた。
中国共産党は4月7日、この「天安門事件」を反革命事件と断定したのだった。
この事件は四・五事件とも呼ばれる。

これを契機として、鄧小平(とうしょうへい)をあらゆる職務から解任する決議を、満場一致で採択したのだ。

1976年10月6日、「四人組」が北京で逮捕された後、鄧小平が復活を果たす中、「四人組」はこの事件を巧みに政治利用し、鄧小平の失脚を図ったとされておる。

「四人組」とは、中国の「文化大革命(1965から1967年)」を指導したとされる上海を基盤とする左派的権力集団のこと。
毛沢東(もうたくとう)夫人の江青(こうせい)・王洪文(おうこうぶん)党副主席・張春橋(ちょうしゅんきょう)党政治局常務委員兼副首相・姚文元政治局委員(ようぶんげん)らは、毛沢東の命を奉じるとして文革を推進し、反対派を次々と失脚させ追放した。
1981年の公開裁判で、4名は死刑(執行猶予付き)を含み有罪となったのである。

又、1989年4月15日の胡耀邦(こようほう)全共産党総書記の死去を契機とした「民主化を求めるデモ隊」を中国共産党政府が鎮圧した。
4月26日当局は、学生運動を動乱として糾弾(きゅうだん)したのであった。

これに対抗しようとした学生達は、さらに大規模なデモで対抗し5月13日からハンストを組織し、かの「天安門広場」を占拠した。

この時ゴルバチョフの訪中があったり、党内では意見対立が起こったりしていたため、これに便乗したと言われておる。

5月に入ってからは、「天安門広場」では、労働者・一般市民も挙って(こぞって)デモに参加した。
その結果100万人もの大型デモと化したのじゃ。

鄧小平(とう・しょうへい)を最高指導者とする中国共産党は、この年6月に当時の総書記趙紫陽(ちょう・しよう)を、事実上解任し党内審査処分を行い、ついに戒厳令(かいげんれい)を布告した。

戒厳令とは何ぞや?」と言えば、戦時・事変の折に、立法・行政・司法の事務の全て、あるいは一部を、軍の機関に委ねることを言う。
通常は人権の広範な制限もなされておる。

1989年6月3日から4日未明にかけ、当局は学生らが占拠する「天安門広場」の制圧に乗り出し、部隊が広場に向かう途中で、夥しい(おびただ・しい=甚だしい・物凄い)数の死傷者を出してしまった。

中国共産党はこの事件を、「反革命暴乱」と定め、再評価されることを断乎(だんこ=キッパリとした意志を持って押し切っている様)拒否し続けておる。

米国をはじめ西側諸国は、中国当局を厳しく非難し、経済制裁や政府高官訪問禁止などの措置を発動した。

これがざっと「天安門事件」の概要じゃ。
明日はこの事件について、もう少し分かりやすく話そうと考えておる。