お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

億計王と弘計王(おけ王とをけ王)のお陰で日本の皇統が続いているとか!詳しい話を教えて!

日本の皇統を再考する上で、億計王・弘計王…この二王子の話を抜きにして語る事は出来まい。
二王子のお陰で、皇統が継続しているのであるから…。
しかも彼らを語る上で兵庫県明石市は非常に重要な地域だという事が出来よう。明石市には今でも「王子町」と言う地名の地域が残っておる。
これは前述した億計王・弘計王、二王子の話に由来しておる地名じゃ。

億計王は、後の第24代仁賢天皇(にんけんてんのう)に、弘計王は第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)とおなりになった。
お二人共記紀古事記日本書紀)に記されておる5世紀末の天皇陛下でいらっしゃる。

磐坂市辺押磐(いわさかのいちべのおしわ)皇子の第1王子が、仁賢天皇とお呼び申し上げる億計王様で、第2王子が顕宗天皇となられる弘計王様である。

父君であらせられる磐坂市辺(いわさかのいちべ)様が、抗争によって後の雄略天皇に殺された折、ご兄弟で針間国(播磨国)に逃れられた。

そこで志自牟(しじみ)と言う土地の豪族の家に召使いとして身を隠された。
志自牟は縮見屯倉しじみのみやけ)、現在の神戸市西区押部谷町で、そこからお二人の王子様は「明石の浜」まで漁にいらっしゃって、途中この村(王子町)で休憩なさったところから、「王子」と言う名が付けられたと言われておる。

また王子が、おみ足を痛められた折には、村人が柔らかい草履(ぞうり)を作って差し上げた。
これをずっと覚えておられて、お二人が皇位にお就きになられた後に、「王子」村に褒賞(ほうしょう)をお与えになったと言う逸話も残っておる。

雄略天皇が身罷(みまか)られた後に、清寧天皇(せいねいてんのう)が皇位にお就きになったものの、跡継ぎがないまま身罷られた。
致し方なく天皇を代行なさったのが、市辺(いちべ)様の妹君である忍海郎女(おしぬみのいらつめ)様。
この方は長らく二王子を懸命にお探しになっていらっしゃった。

その頃都から赴任した役人が、志自牟(しじみ)の家の新築祝いの宴(うたげ)に招かれた。
宴(えん)もたけなわになった頃、召使い達が舞を披露する事となった。
二王子の弟であらせられる弘計王様が、自分達兄弟は、履中天皇の孫であると舞い歌われたのを聞いた役人は、驚き直ぐに都へ連絡した。

斯くして二王子は、めでたく都へお戻りになり、後にはお二人共天皇として皇位にお就きになったのだ。

弟王子のお陰で無事に都へ帰る事が出来たとして、弟王子が先に天皇になられ、その後兄王子が皇位にお就きになったという。

この二王子に纏わる神社二箇所の写真を載せておく。
一度訪れて見ては如何かな?

 

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宗賢神社

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王子神社