お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

努力すれば誰でも勉強出来るようになるの?

よく知られた考え方に、能力主義型の「meritocracyメリトクラシー」という考え方がある。
これは生まれや身分によって地位が決まっていた前近代社会から、個人の業績によって地位が決定される近代社会への転換によって広がった考え方である。

ところが1970年代に入ってから欧米諸国では、「頑張ればみんなできる」という、能力=平等主義という考え方自体が崩壊を始めた。

又学校のメリトクラシーは、社会の平等化などではなく、社会的不平等や格差の再生産のサイクルに突入しているという「再生産理論」まで語られる事になった!

『階層化日本と教育危機』を著した苅谷剛彦(かりやたけひこ)氏は、その著作の中でこう述べておる。

「どれだけがんばるかを、個人の自由意志の問題とみなすかぎり、その背後に社会階層の影響があることに目は向きにくい。能力の差異をより重視する能力主義型のメリトクラシー社会であれば、社会階層と教育達成の不平等により多くの目が注がれやすい。それと対照的に、努力=平等主義を基調とする日本型メリトクラシーにおいて、メリトクラシーの信奉は、能力の階層差を隠すにとどまらない。それは努力の階層差をも隠すことにより、教育達成の不平等を二重に隠蔽するイデオロギーとして機能するのである。」
(『階層化日本と教育危機』有信堂159ぺージ)

「努力すれば誰でも勉強が出来るようになるの?」という問い掛けとその実践は、一見すると平等主義に立脚しているように見える。
然し乍らこの考え方に立脚すればするほど、学力格差問題は肥大化し、再生産されることにつながっていく。
詰まる所、「努力する人間」と「努力出来ない人間」というありようが、社会の階層化を推し進める原動力となってしまうのだ。

努力する事に対する意識・無意識双方からの欲求が著しく欠落した集団。
これが増大すると、社会の階層化は一層促進され社会全体が機能不全に陥って行く。

現今の日本の教育制度では、中程度・或いは中の上程度の偏差値に満足する人間も多い。
これに属さない生徒達はやる気を失いがちになり、努力の仕方すらわからない。

かと言って、上位に属する一握りの生徒達には、努力する力が充分備わっているか?といえば、これまた怪しいところ。
上位者らしく、学ぶ事に対して意欲を有してはいるものの、本来的な「勉学に励む喜び」に触れているかどうか?までは見極め難い。

教育は惰性系の制度であり、鈍重なるシステムを有している。
よって変化するまでに相当の時間を要する。
教育の難しさは現在の政策に問題があったとしても、教育制度を変えること自体に時間がかかってしまう事。
ましてや「心と体」の双方から、努力する事を個々人の内面に刻印するためには、社会全体が「日々生きること」に対して、真面目で直向き(ひたむき)にならねばならぬ。

大人も子供も日常を真摯に生きて行きて行く必要に迫られておる…ということじゃ。