お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

74回目の終戦記念日を迎えて思うことってどんなこと?(2)

シベリア抑留―もう一つの戦争

第二次世界大戦末期である、昭和20(1945)年8月9日未明、ソビエト連邦(現在のロシア)は、日本に対して、「日ソ中立条約」を破棄し宣戦布告した。
満州国ソビエト連邦ソ連と略す)の国境にいる174万人ものソ連極東軍に命じて、満州国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した。これがソ連対日参戦である。

8月10日モンゴル人民共和国も日本に宣戦布告しておる。
日本は8月14日中立国を通して、降伏声明を出した。
にもかかわらずソ連は8月16日に日本領南樺太へ侵攻を再開し、8月25日に至って樺太を占領した。

続いてソ連軍は千島列島へ8月18日に侵攻した。
千島の占守島では8月21日まで、精鋭部隊が死闘を繰り広げた後降伏した。
これらのソ連軍の行動は、ヤルタ会談ソ連・米国・英国)に基づくものだった。

当時、非公開のヤルタ秘密協定では、ソ連に対して、対日参戦の見返りとして、日本からの南樺太返還とクリル諸島の引き渡し、満州では旅順租借権の回復及び大連港や中東鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されておった…という。

日本がポツダム宣言を受諾した後、8月16日には大本営から即時停戦命令が出た為、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。
8月17日は皇族・竹田宮恒徳王が新京に飛び、8月18日、満州国は滅亡する。
8月19日に東部満州国ソ連との国境、ハンカ湖付近で停戦交渉に入り8月26日頃にはソ連軍との全ての戦闘が終わったのだ。

満州では停戦会談によって武装解除後の在留民間人保護を巡り、一応の成立をみたものの、ソ連軍はその通り行う事はなかった。
日本軍崩壊後は民間人は何の保護も得られず、多くの被害がでたのだ。
ソ連スターリンは8月16日の時点では、日本人を捕虜として用いないとしていたが、何を考えたのか、これを8月25日に翻しておる。
スターリンは、日本軍捕虜60万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下したのだ!

〔シベリア抑留!〕
日本軍捕虜は主にシベリアへ移送隔離され、長期にわたる、奴隷的強制労働を強いられる抑留生活を送らざるをえなかった。
しかもソ連各地に点在するラーゲリでは思想教育が行われ、日本人同士の密告や裏切り行為を促すなど、日本兵にとっては精神的にも肉体的にも惨憺たる日常が繰り広げられていたのだ。

ソ連軍によって抑留された日本人は約60万人(資料によってはもっと多い)、厳寒の生活環境のもとで、十分な食事も休息も与えられず、過酷な労働を強要されたことで、6万人もの日本人が亡くなった(資料によってはもっと亡くなっている)。

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭復帰を保証した「ポツダム宣言」に反するものである。
平成5(1993)年10月に訪日したロシアのエリツィン大統領は「非人間的行為」だとして謝罪の意を表した。
但しロシア側は、移送した日本軍の将兵は、戦闘継続中に合法的に拘束した捕虜であり、戦争終結後の抑留者ではないと、訳の分からぬ言い訳をしておる。

日本が二度と馬鹿な戦争をしない為にも、先の大戦の詳細をもっと知る義務があり、日本人の一人一人が、自分なりの戦争分析をする必要があるのではなかろうか?