お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

内村鑑三の『代表的日本人』に学ぶ(3)

二宮尊徳さんてどんな人?

さあ、今日も内村鑑三の『代表的日本人』について話そうと思う。
三人目は二宮尊徳じゃ。
二宮尊徳天明7(1787)年に、相模の国の名も無い村の農民を父に持つ農家に誕生した。

尊徳氏十四に母を無くし、十六歳の時、父を無くした。
十六にして、二人の弟と共に孤児となってしまったのだ。

長男の尊徳氏は父方の伯父に引き取られ、死に物狂いで働いたという。
そんな中でも古人の学問に対して「目明きに見えず」ではいたくないという思いが募り、『大学』を手に入れ、仕事をすべて終えてから、深夜にこの書を勉強していた。
ところがこのことが、伯父に見つかり、貴重な油を使ったと、厳しく叱責(しっせき)されたのだった。

そこで尊徳氏は、自分の力で灯油を手に入れられるようになるまで、勉強を諦めたのである。
翌春、持ち主のない川べりの僅かな土地を開墾し、アブラナの種を蒔き、休みの日に、これを育てたという。

年の終わりには袋一杯の菜種を収穫し、この菜種を近所の油屋に持って行き、数升の油と交換した。
これで尊徳は、夜の勉学を再開しようとした矢先、伯父からは読書のような無駄なことをさせる余裕はないと言われてしまった。
尊徳氏は、反抗するどころか、この伯父の言葉に素直に従い、一日の農作業終了後に、筵織り(むしろおり)や草鞋(わらじ)作りに勤(いそ)しんだという。
以後、毎日山へ干し草や薪取りに行く往復に勉強したのだった。

尊徳氏は菜種を収穫した経験から、真面目に働くことの価値を学び、これをもっと大規模に試したい…と思ったという。
「自然はその法に従う者には豊かに報いてれるのだ…」と言う原理原則を体感した尊徳氏は、伯父の家を出、村の見捨てられた土地を見つけては改良し、山の斜面や道端・沼地などすべてを活かして使いきった。
すると日増しに、資産や富が増えて行き、数年のうちに尊徳氏は、かなりの資産家になったという訳である。

やがて小田原藩家老服部家の家政改革に敏腕を振るい、その手腕を見込まれて、小田原藩の役人となって、地域の復興事業に従事し成果を収めたという。

その過程で彼の思想は「興国安民(こうこくあんみん)の学として結実することとなった。
天保の大凶作や飢饉を機に、領主・農民・商人達から仕法(しほう)の依頼が殺到したという。
1842年には幕府にも登用された。
二宮尊徳の次の言葉は物事の本質を言い当てておる。


尊徳はまず彼らを「天地の理(ことわり)」に従わせ、それから人間の援助を、どうしても必要なことなら何でも与えた、「キュウリを植えたのならキュウリとは別なものが収穫できると思うな。人は自分が植えたものを収穫するのだ」「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができるのだ。術策は役に立たない」「一人の人間は、宇宙にあっては限りなく小さな存在であるが、その誠意は天地(あめつち)をも動かすことができる」「なすべきことは、結果に関係なく、なさなくてはならない。」
(『代表的日本人』p162より)

斯くして、今こそ二宮尊徳の生き方を、日本人は真似ぶ(まねぶ)べきではなかろうか?