お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

呉善花さんの著書『日本的精神の可能性』について教えて!(3)

日本語最大の特長…「述語の世界」に重きを置く発想とは?

西欧の言語表現で重要視されるのは、主語や動詞と言った文章の骨格となる部分だ。
日本語をはじめとするアジア諸国の言語では、特定の主語を持たず述語だけで成り立つ表現が多いと言う。
しかし日本と他のアジア諸国との言語的相違には、決定的違いがあるとのだと、呉善花氏は次のように述べておる。


言語表現に限らず、他者に対する態度・姿勢・関係の取り方を含めて、主語・主体の観点を強く立てないような文化は、おそらくアジアの中でも日本だけだろう。西欧近代ではまず主語・主体の立つ場を確立させ、その場から述語世界を対象としてとらえるという思考パターンを作り出した。それに対して日本語的な思考パターンは、述語的な場の確立が第一義となっていて、主語・主体の立つ場はあまり重視されずにきわめて曖昧になっていると言えるだろう。
(同書171ページ)


氏はこう述べた上で、西欧人は現実世界を見つめる個人的な主体の位置に重きを置き、日本人は「主客の分離不能な現実世界」そのものに重きを置いているとする。
則ち西欧人は「観念の中の抽象的場」を思い描き、日本人は人間や他の生物が、生々しく生きる実際的「場」を思い描いているとする。

この違いは自然環境問題を考える場合にも現れる。
西欧近代では人間側から自然環境を考えるのに対し、日本的視点からすると、自然の在り方の方から、自然環境を考えることになる。

コミュニティ問題も然り!西欧近代の考え方は、個々人を主体としてその外部にコミュニティのあるべき姿を考えるが、日本的発想に立脚すれば、実際に人間同士が連関しあうコミュニティの中から実際的に考えていく…と呉善花氏は述べている。

まさに西欧近代の考え方は行き詰まっておる。

今こそ、日本人の本質的発想を世界に広める時ではなかろうか?
そのためには、日本人が自国の文化や考え方を理解する努力をし、さらには、日本的思惟に対して、もっと自信を深めるべきではなかろうか?