「純粋経験」って何なの?(1)
西田幾多郎氏が著した『善の研究』の第一編・第一章にこんな一文がある。
経験するというのは事実其の儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘(そのまま)の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇(さいじゅん)なる者である。
(『善の研究』西田幾多郎著13ページ)
ここで西田幾多郎氏が言う、全く自己の細工を棄てて…とはどういう事か?といえば、例えばバナナが目の前にあるとしよう。
この時人間は、そのバナナをあるがままに見ていると考えている。
ところがそこには既に、認識の担い手である主観と、認識される対象としてのバナナが、客観性を帯びてあり、その図式の枠組みの中で、我々人間は物を認識しているのだ。
私自身がその「対象」である「バナナを見る」という…、作り出された画面の仕組み・物事全体の姿、形…ということを前提として、バナナが見られているのだ。
人間はこの枠組みの中で捉えられるものを「事柄の実相」、すなわち「真理」として捉え、考えているのである。
西田氏は、何処までも直接な、最も根本的な立場から物を見、物を考えようとした。
所謂(いわゆる)事柄の根源に迫ろうとする「根源への至誠」に満ち満ちた、内省への探求姿勢が、西田氏の真骨頂(しんこっちょう)なのだ。
真理を理解するだけなく、「自ら思索する」ことが、人間としての「生」を全うする道である。
氏は誰よりもこのことを体感していたのではなかろうか?
『全知識学の基礎』というフィヒテの翻訳を手掛けた、西田氏の弟子、木村素衛氏の翻訳に寄せた序文には、斯くの如き一文を寄せている。
私は常に思う。我々の心の奥底から出た我国の思想界が構成せられるには、徒(いたず)らに他国の新たなる発展の後を追うことなく、我々は先ず其等の思想の源泉となる大いなる思想家の思想に沈潜して見なければならぬ。そしてその中から生きて出なければならぬ。
21世紀初頭の今だからこそ、人類の一人一人が、静寂に満たされた深秘(じんぴ)なる、自己最内奥に坐します、金剛心印池に沈静する慧眼(けいがん)の士。これを目覚めさせる必要があるのだと確信している。