お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「純粋経験」って何なの?(2)

詩歌に造詣が深く、自らも詩歌に親しんだ西田幾多郎氏だが、氏はアララギ派の島木赤彦という歌人について次のように語っている。

十七字の俳句、三十一文字の短歌も物自身の有(も)つ真の生命の表現に他ならない。我々の見るところのもは物自身の形ではない、物の概念にすぎない、詩においては物は物自身の姿を見るのである。
(『西田幾多郎随筆全集』「島木赤彦くん」岩波文庫

詩歌を謳う…という自らに課した、あえかなる挑みとは、言葉を用いて、「真の命」を捕まえようとする姿に他ならない。
言葉にならざる思いを詩歌に託すことで、日常とその哲学を表裏一体化させ、むしろ日常の中にこそ生きる哲学があることを知らしめているといえよう。

西田幾多郎氏は、真の「自己」に見(まみ)えることを、真摯に追求したと思われる。氏のこんな言葉がある。

我々の自己の根底には、何処までも意識的自己を超えたものがあるのである。これは我々の自己の自覚的事実である。自己自身の自覚の事実について深く反省する人は、何人(なんぴと)も此に気附かなければならない。鈴木大拙はこれを霊性という(日本的霊性)。而して精神の意志の力は、霊性に裏附けられることによって、自己を超越するといっている。
(『場所的論理と宗教的世界観』岩波文庫より)

自分が自分自身を生きる…そのためには、深く静かで熱い内省力が、何よりも必要となる。
自分がやりたいことをするのではなく、自分がやらねばならぬことをする。そして不可知なるもの、則ち確実に存在しているが、決して知り尽くすことが出来ないもの。
これと自分自身がこの世に実在するということ。

不可知なるものと、自分自身が存在する事。この双方が表裏一体となった刹那、我々は「純粋経験」の甘露を享受する。

純粋経験」とは、まさしくその対象の本懐に触れる旅を指している…。
この本懐に至る旅路を、経験の最醇(さいじゅん)なる旅への一里塚だと考たい。

ごくごく普通の日常を、丁寧に、見えざるものの力を十分感じつつ、強力な内省力を携える。
そして意識を最も統一した状態で、物事の全てを直に(じかに)観る!

これを心がけて生きて行けば、「生きる事」の根源への旅路が、より豊かな広がりを見せてくれるに違いない。