お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「凡ゆる生命の尊さ」を大事にすると同時に、「生命の尊厳」の追求こそ必須事項である(1)

声高(こわだか)に「命の尊さ」を人に説く人がいる。
戦争をすれば、当然死者や負傷者が出る。よって戦争を回避するには、「憲法9条」を死守せねばならないし、9条を無くしてはいけない。
又、少しの変更も許さない!と、絶対の正義を振りかざし、短絡(たんらく)的で幼稚な考えを押し付ける人がいる。

「命の尊さ」と言うものは、そう易々(やすやす=極めて簡単に)と、測ることができたり、理解出来るような代物(しろもの)では無い。
「命の尊さ」繋がりで言えば、二十一世紀の現代でさえ、世界中で罷(まか)り通っている、「人身売買」や「男尊女卑(だんそんじょひ)」「人種差別」果ては「犬・猫の殺処分」・「商業捕鯨」などなど…人類のみならず、動植物を含む種々雑多な生き物の「尊い命」を守るために、どう考え、どうすべきか…?が、問われている。

14年ほど前に作家の曽野綾子氏が、『沖縄戦渡嘉敷島(とかしきじま)集団自決の真実』と言う一書を著している。
この本は、沖縄戦渡嘉敷島で繰り広げられた「集団自決」について、曽野氏が現地を徹底踏査(とうさ)し、書き上げた名著で、大江健三郎氏が書いた、『沖縄ノート』を事実だと信じこんでいた人々に衝撃を与えた一書である。

大江氏の嘘を、白日(はくじつ)の下に引っ張り出した点に於て、将又(はたまた)、「人間の尊厳とは何ぞや?」を問う上で、重要な意味を持つ書であった。

曽野綾子氏は、敬虔(けいけん=神に帰依し慎み仕える事)なクリスチャンである。
前書きは次のように綴られている。

この『沖縄戦渡嘉敷島 「集団自決」の真実』の出発点は非常に素朴な二つの情熱が作用していた。一つは、現存する人間に対する興味である。この作品の主要な登場人物である赤松嘉次氏と彼が共に戦った人々は、戦後25年目の日本のマスコミに、無辜(むこ=罪のない事)の島民を集団自決による死に追いやり、自分達は生き延びた卑怯者(ひきょうもの)、悪人として登場した。(中略)この事件は、調査を進めるに従って、その多くの部分が推測の範囲で断罪され、しかも推測の部分ほど断罪の度合いも激しくなっている、という一種の因果関係が見られるようにも思う。(中略)しかし沖縄では、集団自決の悲劇は軍や国家の誤った教育によって強制されたもので、死者たちがその死によって名誉を贖(あがな)ったとは全く考えてもらえなかった。そう考えるほうが死者たちが喜んだのかどうか、私には結論づける根拠はない。
(『沖縄戦渡嘉敷島 集団自決の真実』曽野綾子著 WAC p3〜p9)

「集団自決」の悲劇を、現象面だけ見ていては、本当の「命の重み」や愛の深さ」など分からない。

明日は真なる「命の尊さ」について述べたいと思う。