お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「凡ゆる生命の尊さ」を大事にすると同時に、「生命の尊厳」の追求こそ必須事項である(2)

先の大戦末期に地上戦を強いられた沖縄戦(昭和20年3月〜6月)で、慶良間諸島(けらましょとう)の渡嘉敷島(とかしきじま)と座間味島(ざまみじま)で起きた、住民による「集団自決」については、旧日本軍の命令によって、自決を強いられたと伝えられてきた。

これに疑問を投げかけたのが、曽野綾子氏の『集団自決の真実』であり、これに先立って出版されたのが、昭和48年に文芸春秋社から出された曽野綾子氏による『ある神話の風景』であった。

曽野氏の徹底した調査によって、昭和25年に沖縄タイムズ社より出版された『沖縄戦記 鉄の防風』から、多くの誤情報が孫引きされていたことが明確になった。
曽野氏は赤松本大尉をはじめ、その部下や集団自決を目撃した人達から丁寧な取材を行った。
それを纏めたのが、『ある神話の風景』であり、『集団自決の真実』であった。

そこには日本軍の住民自決命令はなかった事が記されている。
『集団自決の真実』の解説を著している石川水穂氏は、次のように綴っている。

大江氏は『沖縄ノート』で、集団自決の責任者(赤松氏)を「自己欺瞞と他者への瞞着(まんちゃく)の極み」「あまりに巨きい罪の巨魁(きょかい=大親分)」などと指弾していた。曽野氏は「このような断定は私にはできぬ」としたうえで、「私はそこ(集団自決の現場)にいあわせなかった」「私は神ではない」という二つの理由をあげる。
(『集団自決の真実』p332〜p333)

集団自決は住民自ら進んで行った行為であったが、その様な風潮に、島民を引きずり込んでしまった日本軍の問題は大きい。
更には、軍命令にしなければ島民で亡くなった人達の遺族に年金が降りなかった…という事情もあったのだ。

「生命」が大事だとは誰もが百も承知している。
けれどそこに「生命の尊厳」が、息衝(いきづ)いているかどうか?を再考しなければならない。
生命ギリギリの所での判断に、常軌(じょうき)を逸する「狂気」が存在したとして、誰一人としてそれを指弾(しだん=非難すること)することは出来ないのだ。

古より日本人が鯨を食した文化を無視し、「捕鯨など以ての外だ!」と、指弾する国々がある。
ところがそれらの国の一つであるオーストリアでは、日常的にカンガルーを食している。
日本人にとっては、考えられない食文化だ。

かつてアメリカは鯨の脂だけ取って鯨を捨てていた。
日本人のように鯨を骨の髄まで食し、その後は、「鯨供養」する文化など持ち合わせていなかったのだ。

日本と米国、日本とオーストラリア、どちらが野蛮だと言えるのか?
どちらが正しいといえるのか?

ことほど左様に、「生命の尊さ」を語るなら、真の意味で「生命の尊厳」を深く見つめる必要があるのではなかろうか?