「私」って一体何者なのか?
「私」とは何ぞや?この問題は、思った以上に難しい問題じゃ。
佛教では、「私」には実体がないとする。
私の実体を求めること自体が、私であろうとする欲によって束縛され、苦しみにつながっているとするのじゃ。
佛教では、色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の五蘊(ごうん)という考え方があってな。
色(しき)は物質的なものを言い、受(じゅ)は苦楽・不苦不楽等、外の刺激を心に受け入れる作用。
想(そう)は、対象を認知する知覚の作用。行(ぎょう)は行為を生む心の作用。
識(しき)は感覚や思考を含んだ認識作用じゃ。
この組み合わせを決めるものが「縁(えん)」となる。
「私」が、多種多様な人と出会うことで、五蘊のバランスが微妙に変わってゆくんじゃ。
つまり「私」は、私を自らが所有していない。私が私を選んでいるわけでもない。
「私」は、私が選択し得ない環境や情況の中に生まれ、存在しておるということ。
従って「私」は、私から離れ、大いなる意識(グレート・サムシング)に思いをはせることで、「私」が私を見つめ直し、「私」を発見することになるのじゃ。