お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

平凡な日常に飽きています。不幸では無いが、幸福とも言えない。どうすれば、幸せを感じられるの?

当たり前の日常ほど、ありがたく、得難いものは無い。
ところが、当たり前すぎて、有り難みがわからなくなってしまいがちじゃ。
平凡な日常を「実現する環境」と、平凡な日常を「継続できる力」が、自分自身に備わっていることに対して、心底より感謝し、その有り難みを、噛みしめることができる。そんな有徳な人となるべく、「自らの心」を鍛えたいものじゃ。

今から2000年ほど前に、第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスという皇帝がおった。
ローマ帝国絶頂期に、ローマ帝国を率いた名君の一人として有名な人物。
彼は戦いに明け暮れる中、『自省論』を著しておる。
時には、野営のテントの中でも『自省論』を書いたと言われておる。

日本では南朝の元勲、北畠親房(きたばたけちかふさ)が、陣中で『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)を著したように、『自省論』には、人間のあるべき姿や人生の捉え方が赤裸々に綴られておる。

北畠親房は、危機に直面した南朝の「皇統」としての正当性を、新帝となる後村上天皇への「教訓の書」として書き記したとされておる。また、東国武士に対する「教化の書」としての存在意義もあったと言われる。

その一方で、先のローマ皇帝マルクスの『自省論』は、誰かに読まれること、読ませることを前提としていない。 それだけに、皇帝の本心が記されている点において、読む人の心を揺さぶるのじゃ。

次に、マルクス帝の言葉をいくつか記しておこう。

 1 お前が何か外にああるもののために苦しんでいるのであれば、お前を悩ますのは、その外なるものそれ自体ではなく、それについてのお前の判断なのだ。
 2 お前を悩ます多くの余計なものは、すべてお前の判断の中にあるので、お前はそれを除去できる。
 3 人は田園や海辺や山地に自分が引きこもる場所を求める。
  お前もそういう場所を大いに求めてきたものだ。
  しかし、そうしたことを望む時、お前はいつでも自己の内に憩えるのだから、すべてこうしたことはこの上なく馬鹿げている。

マルクス帝の言葉に、生き方のヒントがあるのう。
内なる自分を開拓しようとすればするほど、自己の内面は、豊かな拡がりを生み出していくということじゃ。

日常に飽きるような生き方は、自己の内面に拡がる、「無限宇宙」に、蓋をすることになろう。
毎日の繰り返しの日常の中にこそ、日々の発見があり、自己錬成の基となる案件が眠っておる。

日常を丁寧に、楽しく、溢れんばかりのエネルギーで満たすべく、精進してみては如何かな?