お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

うちの子は、人の話がきけないんです。どうしたらいいの?

人の意見を「きいて」いるはずなのに、実際の所、人の話をきくことが出来ない人は、子供に限らず、大人にも多く見受けられるのう。
寧ろ、大人で人の話がきけない人の弊害は、看過(かんか:見過ごす事)することはできん。

人の話をきけない人が、話の向きを誤った方向に誘導してしまう。
あるいは議論を感情の充足のために私的利用する。
しかもそれを無意識的に行うので、タチが悪い。
その結果導き出された誤った解釈は、時に思いもよらぬ問題を引き起こす事になる。

人間の人生は、ある意味「成り行きと弾み」で成り立ってはいる。
その原因の一つが、「話をきけぬ人の言動に因る」とすれば、それは大いに問題じゃ。

人の話がきけぬ人は、人の話を「聞いて」はいても、「聴いて」おらぬのじゃ。
「聞く」という行為は、表面上のこと。言わば言葉尻を捉えているだけの行為。
一方、「聴く」というのは、その話し手の本心や本質に耳を傾けるという事・・。

人が話を「きこうとする」営為を、回転寿司に例えれば、よく理解できよう。
ききたい事だけ「聴いて」、嫌な事には耳を塞ぎ、「聞くだけ」にする。時に無視する。
まるでレーンを流れる寿司を横目で眺めながら、気に入った寿司だけをレーンから手元に運ぶように、好き勝手に、「きくこと」を選別する。

これではいつまでたっても、人間としての成長はみられぬ。
自分をチヤホヤしてくれる他人の言動は、要らない情報だとして、回転寿司でいうレーンに乗せたままスルーさせる。其れ位の覚悟があればこそ、自分を非難したり、自分にとって耳の痛い事を言う人の意見を聴こうとする心構えが出来ると言うものじゃ。

これを子供に、強要することは難しい。

何よりも親をはじめ、大人自らが人の話を「聴く姿勢」を示す事が大事じゃ。
その姿をそばで見る事で、子供達は人の話を「聴ける」ようになってくるのじゃ。