お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

毎日漠然と生きているので、今この瞬間を全力で生きられません。どうすれば、瞬間を全力で生きることができるの?

自分自身が、日々漠然と生きていると思うなら、漠然と生きている日常を俯瞰的(ふかんてき;全体を上から見ること。)視点で、客観視することじゃ。
何となれば、気付いているようでも、自分の本音に気付いていないのが人間の本性じゃ・・。
自分自身の漠然とした日常を文章にしてみると、より客観的に自分の現状を把握出来るのでなお良かろう。

例えば、

毎日眠たい目をこすりながら、ようやく目覚め、朝食を取り、身繕いし、満員電車に揺られて会社に着く。
朝の朝礼で色々注意され、これに続くミーティングでは、嫌な上司や気にくわない同僚との、中身のない意見交換の時間が待っている。
ようよう会議が終了したかと思えば、苦手な販売店でのデモンストレーションに駆り出され、心にもないおべんちゃらを言い、頭を下げる日々・・。

とにかく一日中神経の休まる時がない。
こんな慢性的状況が延々と続く毎日・・。
こうした、当て所(あてど:目的・めあて)もない日が続けば続くほど、自分自身を日常的に誤魔化すことに、抵抗がなくなりやがて自分を誤魔化すことが「習い性」となる。

自分らしくない意見を言い、他人にお追従(ついしょう:へつらうこと。)する。
気がつけば、こうやって適当に漠然と生きている自分。
こんな時、ふと自分は、
「自分は全力で生きられる人間なのだろうか?心底より全力で自分の人生を生き切ろう・・としているのだろうか?」 と、真剣に悩み始める。



こうして、自分の日常を少し覚めた目で眺めてみることじゃ。
そうすることで、自分の日常をどの様に感じ、今の状況から自分は脱出したいのか?脱出したくてもできないのか?それとも脱出する手立てを模索している最中なのか?などなど・・。
今まで、明確でなかった、自分の本音の一部に気付くであろう。
すると、以前より、本来の自分がすこーしだけ近づいてくるはずじゃ。これを何度か繰り返すうちに、日常の良さにもちょっとだけ、気付くようになってくる。例えばこうじゃ。

今日は運悪く、昼食時に嫌な上司と社員食堂で相席することになった。
するとその上司は、入社二年目頃の話をしてくれた。

「毎日毎日先輩に叱られてたんだ。
俺はなかなか・・仕事を覚えられなくて・・。もう嫌になって、会社を辞めてやろうって思ってた。
だけどある日、赤と黄色のチューリップが俺の机の上に飾られていた。
どうやら俺の女性上司の父上が、前年に亡くなられていたらしい。
その父上が、チューリップが好きだったらしく、彼女は父上が亡くなった後、父を偲んで自宅の庭にチューリップを植えたらしい。
そのチューリップが、庭で蕾をいっぱいつけたので、会社の部下の机の上に飾ってくれたんだ。
何か・・それからその上司の言うことを、少しだけ聞けるようになったんだ。
それまでの俺は、人の話を聞く耳を持ってなかった。
その上司だけでなく、色んな人間の話が聞けてなかったんだ。」

この話を聞いた入社三年目の彼は、以前より少しだけ仕事がが好きになった。



・・とまあ、こんなこともあろう。
要は自分自身が、自分から逃げなければ、不自由でやる気さえ出ない状況でも、少しずつよくなってくるものじゃ。
その積み重ねによって、徐々に、「瞬間を生きる」ことを〈好む体質〉を生み出し、瞬間に賭けようとする「生きる情熱」を生み出して行く。

自分が自分でなくなる時間が、長ければ長いほど、瞬間を生き切ることはできない。
今日から自分と向き合って生きようぞ!