お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

葵祭の斎王代って何なの?誰でも斎王代になれるの?

毎年5月15日(陰暦4月の中の酉の日)に、京都の賀茂御祖神社下鴨神社)と加茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる京都の「葵祭」は、全国的に知られておる祭りじゃ。
最近では、海外からこれを見に来る観光客も多い。

平安時代、祭りと言えば「加茂祭りー葵祭」を指しておった。
平安時代以来、「葵祭」が国家行事として行われてきた歴史があり、『源氏物語』にも光源氏が勅使を務めるシーンが印象的じゃ。

この祭りで、女人列の中心となるのが「斎王」だが、現在行われておる「葵祭」では、これを「斎王代」が勤めておる。

そもそも「斎王代」というのは、最近出来たお役目の名称で、かつては「斎王」(斎皇女―いつきのひめみこ)と呼ばれる皇女がこれを勤めておった。
葵祭」の「斎王」は、上賀茂・下鴨両神社に、巫女として奉仕した、未婚の内親王あるいは、女王(親王のむすめ)の事を言う。

元々は、伊勢神宮だけにある慣わしだったが、賀茂神社でも行われるようになったことで、伊勢神宮の「斎王」を「斎宮」、賀茂神社の「斎王」を「斎院」とお呼びして区別したのじゃ。

斎とは、潔斎して神に仕えるという意味で、「加茂の斎院」の始まりは、弘仁元(810)年4月、嵯峨天皇の勅願により、第八皇女、有智子(うちこ)内親王を「斎王」としたことがはじまりだとされておる。

「斎王」は「初斎院」と言われる居所で、2年間日々潔斎し、毎月朔日に賀茂神社や本院祭祀に奉仕したのじゃ。

斎院御所は、愛宕郡紫野に設けられたので、「斎院」は、「紫野院(むらさきのいん)」とも呼ばれた。
「斎院」は、天皇陛下が譲位又は崩御された折に、退下(たいげ)する習わし。
ただ皇女の数が少なかったために、必ずしも御一代限りで退下するとも限らなかったという。

有智子内親王から続いた「斎院」は、第35代「斎院」禮子(いやこ)内親王(この方は、後鳥羽上皇第11皇女でいらっしゃる)を最後に途絶え、再び「斎院」が置かれることは無かった。
所謂「斎院制」は、弘仁元(810)年から、建歴2(1212)年のおよそ400年で幕を閉じたのじゃ。

中でも特筆すべきは、第16代「斎院」の選子内親王(せんし・のぶこ内親王村上天皇第10皇女)。
この「斎院」は、56年間の長きに亘って、五代の天皇陛下の御代を勤めあげ、歴代最長の「斎院」として、「大斎院」と称された方でいらっしゃっる。「斎院」を勤めた皇女の方々は、その殆どが生涯独身を貫かれておられる。


古より受け継がれてきた「葵祭」は、昭和31(1956)年に、「斎王」に代わる「斎王代」 を中心とした女人列が復興した。
現在では、京都ゆかりの一般人から選ばれるので、「斎王代」と呼ばれるのじゃ。

一般から選ばれるとはいえ、「路頭の義」(行列)を行うにあたって、「斎王代」となる人自身が、その費用を負担しなければならない。
この費用が数千万円かかるとあって、これを賄える人が、「斎王代」を勤めておる。

歴史の中に見る「日本の姿」のひとつに、常に神に祈りを捧げる皇室の姿を垣間見る事が出来る。
そういった視点から「葵祭」を楽しむことも、日本人として必要なことではなかろうか?