吉田松陰の『留魂録』には、何が書いてあるの?(2)
松陰の「死生観」は、留魂にあり!
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留め置かまし 大和魂
二十一回猛子
これは『留魂録』冒頭にある歌である。
獄中にあった囚人吉田松陰が、門弟達に当てた書、『留魂録』が、塾生に伝わるように…と、直筆の書を用心のため2通作成しておる。
1通は松陰の処刑後、門弟の飯田正伯に伝わり、萩の高杉晋作らの塾生宛に送られた。
この本は、門弟の手で書写され、正本自体は行方不明となっておる。
現在萩の松陰神社に伝わる書本は、もう1通の正本。
こちらは松陰と獄中で起居を共にした沼崎吉五郎が秘匿していたもの。
沼崎は、自身が小伝馬町の牢から、三宅島に遠島送りになる際も、褌(ふんどし)の中に、この1通を隠し持ちつつ明治維新を迎えたという。
明治7(1874)年、東京に戻った沼崎は、明治9(1876)年に、松陰門下の野村靖(野村和作)を訪れた。
沼崎は偶然にもこの一書を一番弟子である野村に手渡したのだ。
残念ながらその後の沼崎の消息は判っていない。
獄中での吉田松陰と沼崎との深い信頼関係。
松陰を尊敬し敬愛し尽くしていたであろう沼崎。
死ぬべき時が到来した事を感知した松陰。
共に生死苦海(しょうじくかい)の荒波を超えて来た者同士が、魂の邂逅(かいこう=めぐりあうこと)を果たした時、獄中での阿吽のやりとりがあったに相違ない。
松陰は江戸に護送される折、かの「赤穂浪士」で知られた「泉岳寺」の前を通る時に、歌を詠んでおる。
其れが有名な次の一首である。
かくすれば かくなるものと しりながら 已むに已まれぬ 大和魂
こんな事をすれば、こういう風になるとわかっていても、我が心の向かう方に進むうちに、止めようとしても止められない…そんな思いが募り来て、あえて行動に移すのが、心の奥深いところに『大和魂』を培っておる日本人の姿なのだ!
人はこの世の生を終えても、その魂魄(こんぱく)は、彼の世(あのよ)・この世の区別なく縦横無尽に往き来する。
誰よりも誠心(まことごころ)を大切にした松陰。
生前楠木正成の墓所を訪れた際、松陰は漢詩『楠公墓下(なんこうぼか)の作』を創作する程に、楠木正成を慕っていたという。
松陰をして崇敬(すうけい=崇め敬うこと)する楠公さんと共に、魂魄この世に留まりて、我々が如何にして、「大和魂」を呼び起こし奮い起こすかを静かに見守っているに違いないのじゃ。