お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

吉田松陰の『留魂録』(りゅうこんろく)には、何が書いてあるの?(1)

留魂録』が記されるまで…!

吉田松陰は、幕末の長州藩の志士であり、教育者でもあった。
10歳にして藩校明倫館(めいりんかん)で、山鹿流兵法(やまがりゅうへいほう)を教授したとされる。
兵学の後見人であった山田宇右衛門(うえもん)や山田亦介(またすけ)より、世界情勢への視(め)が開かれたと言う。

嘉永(かえい)2[1849]年、藩内の海岸防備の実状を巡視(じゅんし)し、翌年には、平戸・長崎を遊歴し、嘉永4[1851]年藩主に従って江戸に行き、佐久間象山(さくましょうざん)ら有識者に従学し、同年12月には、宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと、東北行きを敢行し、水戸では会沢正志斎(あいざわせいしさい)らと会うなどして国史研究に開眼した。
然し乍らこの旅は藩の許可を得る事なく実行されたために、嘉永5[1852]年12月、亡命の罪によって、御家人召放(めしはなち)に処されたのだ。

嘉永6[1853]年正月、諸学遊学が許可され、たまたま江戸滞在中に、ペリーの浦賀来航にあい、翌年には門人、金子重之助(かねこしげのすけ)と共に、米艦への密航を企てるも失敗し、自首して江戸の獄舎に幽閉された。

同年9月には、自藩幽閉の処分を受けて、萩の野山獄(のやまごく)に入った。
囚獄中は、読書・思索と共に、囚人らに孟子を講義する。
これが松陰の主著『講孟余話』(こうもうよわ)である。
およそ一年後、病気保養につき実家、杉家に預けられ、以後2年半は、松下村塾を主宰する。

安政5[1858]年には幕府が通商条約を締結したことに反発し、過激な行動をとった。
これにより再び野山獄に収容されることとなる。
安政6[1859]年、安政の大獄で捕縛され、江戸に召喚(しょうかん)された挙句、10月27日処刑された。
享年(きょうねん)30歳の若さであった。

松陰が処刑される前日に書き上げた直筆の『留魂録』について、明日、話することにする!