お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「覃思研精(たんしけんせい)」の意味を教えて!

「覃思研精」とは、一言で言えば、内容を深く思索し、詳しく調べることを言う。
昨日に続き、この言葉も吉田松陰が使った四字熟語である。

嘉永(かえい)五年九月四日「齋藤新太郎あて書簡」には、次のように認められている。

僕賦稟躁浮(ぼくふひんそうふ)、未(いま)だ嘗(かつ)て書籍に覃思研精(たんしけんせい)ならず。屏居(へいきょ)以来一事(いちじ)の身に到るものなく、一念の胸に介(はさ)まるなく、頭(こうべ)を埋めて蠹魚(とぎょ)となり、心力(しんりょく)を此の時に専(もっぱ)らにす。

これを訳すと、

私は生まれつき落ち着きのない性格で、これまで一度も書籍の内容について深く思索し、詳しく調べる…と言うことがなかったのです。蟄居(ちっきょ=家に籠って外出しないこと=転じて自宅謹慎する事)以来、一つとして身に付いたことがなく、一つの考えも心に持つものもないのです。それで、没頭して本の虫となって、精神をこれに集中しているのです。

この書簡は、「東北遊」の旅から帰ってきた後に、実家にて蟄居中に、剣術の指南役として長州萩へ、招聘(しょうへい)された古くからの友人である齋藤氏にあてた一書である。


この「覃思研精」ならず云々…の言葉こそ、学びを己が血肉とすべく、日夜努力し続けた、吉田松陰の思慮深い言葉であろう。

深い思索の連続性の中にこそ、独自の思考を育む種があり、その上で、例え面倒でも骨をおりつつもその種を大切に育てて(調べ尽くす)いくという…強靭な根っこを、四方八方巡らせる事で、大きな花を咲かせ、成果が結実するのだと言えよう。