お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

政教分離について教えて!

政教分離」については、憲法で規定されている。
憲法20条第1項に「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とある。
これは国家と宗教の分離を謳ったものである。
また憲法20条第3項に、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と言う規定も加えられている。

これによって、国家が宗教的に中立であることを保証し、信教の自由の保障・民主主義の確立・国家と宗教の適切な距離の確保…を担保しているのだ。

11月15日に終了した皇位継承に伴って行われた「大嘗祭」について、「政教分離」の立場から「大嘗祭」の費用負担について、疑義を提示する人達がいた。

かつて小泉純一郎元首相は、平成十七年の「新嘗祭」に参加した折に、
「暗いから見えない。電気をつければいいじゃないか!」と、宮中祭祀に対して物申したと言われる。

新嘗祭」と言えば、天皇陛下が神々に新穀を捧げ、陛下ご自身も召し上がり、収穫に感謝する祭祀である。
大嘗祭」は御一代一回限りであるのに対し、「大嘗祭」の次年度から「新嘗祭」が催される。
このような千年を軽く超える伝承祭祀に口を挟むほど、無謀で無知な日本人ではありたくはない。

大嘗祭」はもとより、「新嘗祭」であれ、他の宮中祭祀であれ、それらの在り方について、「政教分離」の考え方を無闇に振りかざすのは、考えものである。
何となれば、古より領土・人民を統治する事を、「政(まつりごと)」と呼び習わした如く、かつて政治は「祭事」だったのだから。

完全なる「政教分離」すること自体が、連綿と続いてきた日本の文化・文明を蔑(ないがし)ろにするだけでなく、今後の世界に於ける日本の文化的・文明的位置づけをさらに堅固にし、熟成させるプロセスをも蔑(ないがし)ろにすることにつながっていくと考える。

豊かな日本、千代に八千代に繁栄する日本を祈念しつつ、宮中祭祀を温かく見守って行きたいものである。