お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

広島原爆投下の日に思ふ!戦争とは何ぞや?(2)

戦争と祭り

広島が74年の「原爆の日」を迎えた昨夜、原爆ドーム前を流れる元安川では、犠牲者の鎮魂を祈る灯籠流し(とうろうながし)が行われた。
世界初の原爆投下を経験した広島。
この経験を本質的平和のためにどう活かすことができるのだろうか?

世界を見渡せば、「自国は自分で守る…」と考える、何らかの国防の義務が、国民に課されておる国々では、戦争を非難し忌避する人々が大いなる権利を放棄する、軟弱で卑しい臆病者だと決めつけられる傾向にある。

これは戦争を科学的研究の対象外に置いた、感情論が展開されていることを意味する。

同様のことが、「信仰」にも言える。
「信仰」に対して疑念を持つ人々が、「信仰」を持つ人を説得することはできない。
これに対して信者は、不信者を大切なことを理解できない人間だと考える。

以上のことから、人類学者であり、社会学者でもあったロジェ・カイヨワは、戦争が「神聖性」を有する…と主張する。
彼は戦争と人間の本質的関係を分析したのである。

カイヨワが考えた戦争の本質とはなにか?といえば、戦争は単なる武力闘争ではなく、破壊のための組織的企てであることを、心に留め置くことで初めて理解出来ると述べたのだ。

そして国家は自己肯定し、自己正当化し、自己高揚して強化する…と強調する。

かるが故に、前述の如く、戦争は「祭り」に類似し、「祭り」と酷似する興奮の絶頂を出現させる。
そして「祭り」同様に一つの絶対として現れ、ついには「祭り」と同じ眩暈(めまい)と神話とを生むのだ…と語る。

人間社会が身分制支配の時代から、平等原理の時代(国民と民主主義)へ移行するにつれ戦争が激化し、ついには全体化した。

これによって「全体戦争」なるものが、「神聖性」を帯びたのであった。

国家の統制が強まれば強まるほど、他国と国力資源を競い合う。
これが国家最大の関心事となる。いわゆる全世界が、憎悪に満ちた「絶対的闘争の時代」へと突入した訳である。

「核エネルギーの解放」という制御不能な力を用いた「殲滅兵器(せんめつへいき)」。
これが、広島・長崎に投下された時、人類は気遣かねばならなかった。

それは科学技術の成果と言われる「核兵器」は、国家主導によるものだと言うこと。
しかも人類規模の「聖なるもの」の現出によって、戦争が「国民」という枠組みを超えたことを!

かるが故に、国家自体が自律性を喪失することを…!
機械技術が戦闘から一切の人間的意味を奪うであろうこと…。
戦争の汚辱(おじょく)にまみれた悍(おぞ)ましく、臭穢(しゅうえ)と醜(みにく)さに彩られた部分、その禍々(まがまが)しい実像を、全人類が直視することでしか乗り越えられない課題だということを!

今からでもこの卑(いや)しい現実を、何の打算も無しに凝視したいものじゃ!