お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

昨日のお話から黒住宗忠さんに興味を持ちました!宗忠さんについてもっと教えて!(1)

そうか!黒住宗忠氏について興味を持ってくれたのか?

この方は、安永九(1780)年、冬至の日の出の時刻に、現在の岡山県岡山市上中野に生誕なさった。
安永と言えば、江戸時代後期のこと。
宗忠氏は信仰心の篤(あつ)い家庭で産まれた。
黒住家は、備前(びぜん=岡山県南東部)国御野郡中野村で、今村宮(いまむらぐう)の禰宜(ねぎ=神主の下、祝…はふり…の上に位する神職のこと)を務める一家であった。

その為か宗忠さんご自身も、敬神(けいしん=神を敬うこと)の志高く、二十歳(はたち)の頃、「生きながら神になろう」と、お誓いになるほどだった。

この日より只管(ひたすら)に修行に励まれておった。
二十四歳の時伊勢参宮を果たし、文化元(1804)年、二十五歳で黒住家の嗣子(しし=家督を相続する子)となり、右源次と称した。

文化七(1810)年父が隠居につき、宗忠氏が跡目を相続することとなった。
翌年、妻いくと結婚。ところが、目出度い婚姻の翌年の事。
文化九(1812)年、八月二十八日母つた死去、九月五日父宗繁までもが逝去(せいきょ=他人の死の尊敬語)なさったのじゃ。

宗忠さんは僅か十日ほどの間にご両親を亡くされる…という不幸に見舞わられたのだ。
突然ご両親の死に直面した宗忠さんは、心痛の為、床に臥せって仕舞われた。
翌文化十(1813)年十一月には肺結核を患ってしまう。
孝心篤き忠宗さんは、深い悲しみに打ち拉(ひし)がれた結果、重篤(じゅうとく=病状が著しく重いこと)な病に陥ったという訳じゃ。

文化十一(1814)年一月十九日、三年もの間、病の床に耽っておった宗忠さんに匙を投げた医者は、宗忠氏に「死の宣告」を行なった。
又、これを心配した友人が、占い師に聞いた結果も悪かった…という訳で、宗忠さんは従容(しょうよう=として動じることなくゆったりと、落ち着いたさま)として死に赴(おもむ)く心情になられたという。

その時ふと自分は両親の死を悲しむ内に「陰気」になって罹患(りかん=病気にかかる)したのだから、自分の心さえ陽気になれば、病気は治るはずだと気付いたのだ。

せめて残りの命の続く限り、我が「心」を養うのが親孝行と思い定め、神恩・天恩の有難さに心を向ける努力を始められた。
その一つとして、今生の暇乞い(こんじょうのいとまごい=この世に別れを告げること)をするため、朝日を拝まれたという訳じゃ。

すると少し気持ちが軽くなり、この日を境に病が軽くなってきた。
日に日に病が快方に向かった三月十九日の事。
臥床(がしょう=寝床)中の忠宗さんが、突如として入浴し日拝(にっぱい)したいと言い出したのだ。

妻が止めるのを制した忠宗さんは、無理矢理入浴させてもらった。その後で縁側に這い出て太陽を拝んだ。
これをきっかけとして、三年来の病は一時に全快したということじゃ。

そしてこの年文化十一(1814)年、十一月十一日冬至の朝に、宗忠氏は天地生々(全てのものが生き生き生き通すこと)の霊機(霊妙なチャンス)を自ら会得したのであった。

…… さてさて今日はここまでじゃ!明日この続きを話すことに致そう!……