お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

宗忠さんに興味を持ちました。黒住宗忠さんについてもっと教えて!(2)

文化十一(1814)年十一月十一日冬至の朝。この日行った日拝によって、太陽の陽気が宗忠さんの五臓六腑(ごぞうろっぷ=体全体・心の中)に染み渡った時、宗忠さんは「回心」されたのじゃ。

その時の心は、
「笛を吹き糸をしらべ金を叩き鼓を鳴らして歌い舞うとも及びがたい」
(『宗忠大明神御伝記』より)ほどの楽しさであったという。

生きとし生けるもの全てが、麗しく、愛おしく、活気に満ち満ちておる事…。
これを腹の底から得心する…まさに「何事も心次第」で変わる事が出来る…を体現した人として生まれ変わられたのじゃ。

爾来(じらい=その時以来)、平凡な日常の中に「非凡なる自己探求」を行った人として、世間から注視される存在となったのだ。

宗忠さんは山奥に籠ったり、厳しい修行をしたりして特別な環境の中で、悟りを開いたのではない。
宗忠さんにとっては、日常の中に於ける「親孝行」が重要な事であった。
それを突き詰めていくうちに、大病しながらも人間が生きる上で大事な生き方を大悟したのだ。
大悟の道は、身近な所に在る…この大事なことを発見した人でもあったのじゃ。

宗忠さんは「親孝行」を拡大解釈したところにある天地自然の存在。
この大自然への敬意を表すのに、「天地自然」への恩返しとして、「神の御開運を祈る…!」という画期的考え方を編み出した。
天地自然=神であることを、体の隅々まで理解し咀嚼しておったのであろう。
これは人間が生きるための「生命哲学」ともいうべきもの。

宗忠さんの次の和歌は実に面白い!

 むずかしく思ふこころぞ地獄なり やすく楽しきこころ極楽

宗忠さんは、人は「天地自然」の分心(わけみたま)によって生み出された存在だと考えた。
太陽神である天照大御神様は、人々が生き生きと生き栄え、喜び、楽しむ様子をご覧になることを、自らの最高の喜びとされる存在であらせられる…と考えたのじゃ。

「分心」とは、「心の奥底に存在する心」のことで、個々人が有する心の奥底に在します「神聖」なる「真正」「真如」のありのままの姿の事。

我々はこの「分心」を大切に慰撫(いぶ=慰め労わること)する事で、豊かで揺るぎない心を獲得することができる…という訳じゃ。

「活き物」である我が心を大切に育み、日々の営みを丁寧に行い、感謝に満ちた毎日を過ごして行きたいものよのう。