内村鑑三の『代表的日本人』に学ぶ(2)
上杉鷹山に学ぶ改革魂とは?
江戸後期の米沢藩主、上杉鷹山(ようざん=上杉治憲〈はるのり〉のこと)は、上杉重定(しげさだ)の養子であった。
細井平洲(ほそいへいしゅう)を師と仰ぎ、藩政改革を推進し、節約の励行、行政の刷新、荒地の開墾(かいこん)、産業を奨励(しょうれい)するなど様々な改革を行った藩主だった。
上杉鷹山が生涯にわたりあつく崇敬していた春日神社。
ここには鷹山が藩主となる日に奉納したとされる、次の誓詞(せいし=誓いのことば)が納められておる。
一、 文武の修練は自ら定めたとおり怠りなく励むこと
二、 民の父母となることを第一の務めとすること
三、 次の言葉を日夜忘れないこと 贅沢なければ危険なし 施して浪費するなかれ
四、 言行の不一致、賞罰の不公平、不実と無礼を犯さぬよう慎むこと
これを今後堅く守することを誓う。もし怠るときはただちに神罰を下し、家運を永年にわたり消失されんことを。
以上 上杉弾正大弼(うえすぎだんじょうだいひつ)
藤原治憲
明和4(1767)年8月1日
(『代表的日本人』内村鑑三著講談社p86より)
常に上記の誓詞を心に留め置いているが故に、藩を挙げての大改革ができたのであろう。
かつて上杉家は越後に広大で豊かな領地を有し、日本の西海岸にも数カ所の領地があった。
太閤によって会津地方に移されたものの、全国五大名の一つでもあった。
ところが「関ヶ原の戦い」で、反徳川方に味方したため、100万石の石高であったのが、30万石に厳封された。
その辺鄙な米沢に移され、石高はさらに半分となった。
上杉鷹山が藩主となった頃には、15万石に減封されていたと言う。
にもかかわらず100万石当時と変わらぬ数の家臣を抱えておったのだ。
そんな切迫した状況を潜り抜け、上杉鷹山は、藩政改革・産業改革・社会改革・道徳改革…と様々な改革を命がけで成し遂げたという。
そのおかげで鷹山晩年の頃には、藩は安定し豊かになったという。
文政5(1822)年3月19日、鷹山は最後の息をひきとった。
「民は良き祖父母を失ったかのように泣いた。身分を問わず誰も何万人もの人が沿道を埋め尽くして葬列を見送った。
合掌し頭(こうべ)を垂れ、一斉に号泣する人々につられ、山川草木(さんせんそうもく)もこぞってこれに和した」と、伝えられている。(同書p125より)
常に春日神社の神と共に、神性(しんせい=神様の性格)の宿った統治を行い、無私を貫いたからこそ、皆に慕われつつ、改革を成功に導いたのであろう。