「純粋経験」って何なの?(4)
昨日お話しした菊池寛の『恩讐の彼方に』だが、これに記されている市九郎は、何も特別な人間ではない。
見渡せば、貪瞋痴(とん・じん・ち)の煩悩に塗(まみ)れ、私利私欲・我欲の塊となって生きている人間の何と多いことか…。
哀し過ぎて、辛過ぎて、どうしようもなくなって、遂には笑わずには居られない。
そんな濁世(じょくせ)の荒波に、否応(いやおう)なく、巻き込まれて生きている我々の日常。
だからこそ、そこに「生きる哲学」が必要になる。
何気ない日常に於ける一挙手一投足が、その人自身の生き方であり、存在の在り方を示している。
市九郎は煩悩の渦の中から、泥を背負いつつ立ち上がり、真なる自分、了海となって、己にとっての「善なる道」を開拓したのだろう。
トンネルを掘るにしても、村人達から嘲(あざけ)られ、蔑(さげす)まれ、馬鹿にされても、ただ只管(ひたすら)に穴を掘り続けたのだ。
完成が近くなると、人々は、漸く了海を尊き人だと認め始める。
人が何と思おうとも、人が何と言おうとも、目には見えぬが、確実に存在する「サムシンググレート」。
この絶対的存在に対して、善なる道を示しつつ生きることが出来れば、人は強くなるのだろう。
そうすれば、「何処までも直接な、最も根本的な立場から物を見、物を考える」という、西田幾多郎氏の語る言葉が、3次元的様相を呈し、根源への旅を体現することを、可能なさしめるように思うのだが…!
人間が真に生きる…という、実在そのものは自らの手で掴みとる他はない。
西田氏の考え方は、仏国の哲学者アンリ・ベルクソンの「直感」をめぐる思想とも通じている。
ありとあらゆる事柄を外から捉えるのではなく、その事柄の内部に入り込みそれを捉えようとする。
まるでシャーマンが目的の人や物に憑依し、その内面を隈なく探索するような…。
『恩讐の彼方に』の了海は、トンネルを掘り続けるうちに、遂には自他の区別を完全に喪失し、「ありのままの世界」へと没入できたのだろう。
「ありのままの世界」とは、正に「ありのままの自分」に他ならない。