お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

日本語に於ける「数の数え方」の繊細さって何ですか?

日本語というのは、細かな言い回しや人間同士の上下関係等々・・、微妙で繊細な言葉で溢れておる。
一言でおばさんと言っても様々じゃ。
両親の姉にあたる方なら、伯母さんになり、両親の妹は叔母さん。
小母さんと書けば、年少者がよその年配女性を、親しみを込めて呼ぶ言葉を表しておる。

数も同様。椅子は一脚二脚。お箸は一膳二膳。箪笥・長持は一竿二竿・・等々。
今は、ちょうど桜の季節。
桜も様々に数える。
桜の蕾は一個二個。その蕾が開いて、一輪二輪となり、これがかたまって咲けば、一房二房。房が枝にたわわに咲く。
枝は、一枝ニ枝と数える。
やがて花が、一片二片(ひとひら・ふたひら)と散ってゆく。
桜の木自体は、一本二本・・。
数え方ひとつにも、日本人の感受性の豊かさが窺(うかが)われて、興味ぶかいのう。

ところで、ちょっと次のミニエッセイを読んでみてくれるかな。


  桜の頃に

桜の蕾が一つ二つと目につく頃になると、仄か(ほのか)な桜の香りが漂ってくるようで、心なしウキウキとしてくる。
私には好きな桜木(さくらぎ)があった。
早春を迎え、一輪二輪、桜花(さくらばな)が咲き始め、各地の標準木〈五輪以上花をつけると開花とみなす基準となる木〉が、五輪の花を付ければ、めでたく「開花宣言」が発せられた。

愛すべき桜を、一輪二輪・・と指さしつつ花数(はなかず)を教えていたのに、ふと気付けば、大振りの花房が、一房ニ房・・と、闇中(やみなか)に花明かりを灯す(ともす)頃、桜は花盛りの刻(とき)を迎えていた。

やんちゃ盛りの子供が、私が愛でていた桜をひと枝、手折(たお)ろうとした。
これに気付いた私は、これを諌(いさ)め桜は事無きを得た。
この数日後大雨が降り、その翌日のことだった。
桜の元へいそいそと出かけた私は、ある光景を目にし、聳然(しょうぜん;慎み畏れる様)とした。

桜花(おうか)の花弁(かべん)が、一片(ひとひら)ニ片(ふたひら)・・と、名残惜しげに舞い踊ったその刹那のこと。
春疾風(はるはやて:春特有の烈風)吹き渡り、さんざめく花見客の喧噪(けんそう)をも飲み込み、鬼気迫る勢いで、花弁(かべん)舞い狂い、やがて舞い去った。
薄桃色の花弁(はなびら)に揺蕩う(たゆたう)儚(はかな)さと優麗さの背後に在る潔(いさぎよ)さ。
その潔さに加担する芯の強さが愛おしかった。

風がやむと、桜は何事もなかったかの如く、ただ只管(ひたすら)に、その幽艶(ゆうえん:奥ゆかしくうつくしいさま)さを示してくれた。
桜のこの振る舞いに、映画監督黒澤明の映画のワンシーンを観る思いがした。

 

このエッセイに、桜の数え方を入れてみたが、如何であったかのう。
数え方ひとつに、桜のその時の有り様が感じられれば、本望じゃ。