お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

クラブ活動が厳しいので勉強出来ません。どうしたらいいの?

中学や高校に入って、自分が入りたいクラブを決める時、何かしらウキウキとした、心嬉しい気持ちがするもんじゃ。
若い時にしか手に出来ない、クラブ部活動を通じての体験や人間関係の親密さと言ったら、言葉ではとても言い表せないからのう。
それだけに、少し軌道から外れてしまうと、それを修正すること自体が困難になる。

また、クラブ活動と勉強との両立は、なかなか骨の折れることじゃ。
ただ、どこかで何らかの処置を、本気でやらねばならん。
クラブ活動を理由に、学習時間を確保できない・・と言い続けていると、そのうちに何に対しても、言い訳をすることが習い性になってくる。

その結果、クラブ活動自体に、良いプロセスや結果が残せなくなる。
当然ながらクラブそのものが、苦痛の種ともなってくる。
もはや、一体何がしたくて、クラブに入部したのかさえも、わからなくなってしまう。

これ即ち、「自分で自分を見失う」べく生きる・・という、訳の分からぬ状態に陥るということじゃ。
これを若いうちに身に付けてしまうと、どえらいことになる。

学生である以上、勉強とクラブを両立すべく考え抜くことが必要。
自らが考えようとしない人間は、クラブ内でも同じことをやっておる。
一介の部員であっても、自分が所属するクラブが、どんな目標を立て、如何なるトレーニングを行い、どんな戦術を立てるか・・について、自らの考え方や明確なビジョンを持ち、自分自身の内面との格闘の末、他者たる指導者や先輩・同輩・後輩の考えを聴き、それらを多角的知力を用いて、咀嚼しようと試みることが重要じゃ。

いつまでも、深い意味も持たずに、クラブに在籍し続け、監督やコーチ・主将の言うことに、漠然と従っているようでは、詰まる所、お互いがお互いを頼り合い、責任を押し付け合う習性が、自然と身に付いていってしまう。
クラブで活躍できる人間というのは、己の根幹に何があるのか?を常に問い続けている。
それ故、クラブだけでなく、勉強もできる生徒が多いのも事実じゃ。

今一度クラブ活動を通じて、自分自身の日常生活を俯瞰し、自己責任を全う出来る在り方を、模索してみてはどうじゃろうか?

自分を諦めない限り、必ず解決法はあるもの。 勉強とクラブ双方の充実・・という実験は、自らの人生を自らの手で切り拓く糧となるのじゃから・・。