令和の意味って何?詳しくおしえて!
「令和元年」をあと1カ月で迎えることとなった。
元号の根拠となった『萬葉集』が編まれた頃、奈良の地は国際的に注目された都市であった。
今回の元号「令和」に纏(まつ)わる「梅宴」(うめのうたげ)は、大宰府にある大伴旅人(おおとものたびと)の自宅でのこと。
当時の太宰府は、国際的交流が行われていた土地柄でもあったのじゃ。
「令和」の基となった『萬葉集』巻五雑歌815にある梅花の歌三十二首の序文には、次の意味が込められておる。
初春のとても良い月に、気は良く、風も穏やか。
そんな時、庭には、鏡の前で女人が使う白粉(おしろい)のような白梅が咲き、
蘭は匂い袋の様に香っている云々・・。
この良い月の「良い」を表す言葉が「令」じゃ。
令夫人(れいふじん)や、ご令嬢(れいじょう)という言葉もある。
また、風和らぐの「和」が、イメージそのままに「和」となっている。
当時の貴族達にとって、シナの詩文集『文選』(もんぜん)を繙(ひもと)き、理解することは、言わば貴族の嗜み(たしな)みの様なもの。
『文選巻十五』にある張衡(ちょうこう)の詩『帰田賦』に、次の一文がある。
「仲春令月、時和し気清らかなり」
この一文を、宴会参加者全員が、当然のように知っており、〈おそらく〉大伴旅人が語ったであろう序文の文言に、納得の笑みを浮かべつつ、各々の「梅の歌」を披露したに違いない。
シナでは、隋唐以降、官吏(かんり)登用に、科挙(かきょ)が導入されて、詩文創作重視の観点から、南北朝時代の詩文集『文選』が詩文創作の規範とされてきたらしい。
この様に考える時、大陸から知的情報を摂取し、咀嚼(そしゃく)し、換骨奪胎(かんこつだったい)した日本人の叡智が、『萬葉集』に詰まっているといえよう。
然も天皇陛下から一般庶民に至るまで、「和歌のもとの平等」の精神が、遺憾無く(いかんなく)発揮された『萬葉集』に、「日本的民主主義」の原点を見る思いがする。
その「日本的民主主義」は、現在でも健在じゃ。
毎年、天皇陛下によって、和歌のお題が示され、そのお題に沿った和歌が、全国から寄せられる。
選ばれた国民は宮中に召され、「宮中歌会始めの儀」の場で、天皇皇后両陛下並びに、皇族方のお歌と共に発表される。
「和歌の元に平等」なる國は、世界中探しても、日本以外にはないのじゃ。
こんな素晴らしい伝統が、連綿と受け継がれている事実と向き合った時、『萬葉集』を根拠とし、大陸の『文選』の力をも、知的エネルギーとして取り込むパワーを感じずにはいられんのう。
5月より新生元号「令和」のもとに、日本人が日本人としてのアイデンティティーを堅固にし、国際社会を牽引する哲学を熟成させる機運と気概が必要じゃのう。