お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

絶望とは何か?

絶望とは、これまた大そうな問題じゃな。
しかし人間は日々絶望して生きておるともいえよう。

則ち絶望にも「瞬間の絶望」と「永遠の絶望」があるということじゃ。
「瞬間の絶望」の多くは、自分に与えられた条件のもとで、その条件に従いつつ、自分の力を発揮しようとする折に、「盾を突く案件」が起こりやすい。
この時に「瞬間絶望」が訪れる。

会社や学校で目標を決め、皆が一致団結して目標に向かう。
よりによって、そんな熱い時に、とんでもない横槍が入る。
ここで人間は「小さな絶望」に陥る。
どうしても事態の収拾を図れず、致し方なく、その目標をあきらめたり、暗礁に乗り上げたりする。

そのまま時が過ぎてゆく。
葬り去られた案件は、無意識層に痂皮(かひ:かさぶたのこと)の如く静かに沈殿するんじゃ。
ところが事あるごとに、急速にそれらの痂皮が再び浮上し、再度問題を引き起こす。

その一方で、「小さな絶望」に陥った末、様々なことを思案し、実践する中で、解決策を模索し続ける人がいる。
そんな人にとっての「瞬間絶望」の行く先は、記憶の一部として残るだけだ。
むしろその体験がよりよい経験に変貌する。

「瞬間の絶望」を克服するには、今ここにあることと真摯に向かい合う。
その上で、問題解決にむけて挑み続ける。
そうすれば、大方解決するというわけじゃ。

しかも様々な種の「絶望の痂皮」が、無意識層に沈殿しても、再び浮上することは、ほとんどないといえるのじゃ。

明日は「永遠の絶望」について話してみたいのう。