呉善花さんの著書『日本的精神の可能性』について教えて!(2)
日本人の人間関係について
呉善花氏は『日本的精神の可能性』の中で、日本人は自己と他者の区別が曖昧だという。
その一方でアジア諸国の人達は、血縁者と他人を明確に差別すると言っておる。
西欧や中国・韓国では、社会において自分以外の他者はある意味での警戒すべき要注意人物であるところが共通している。ところが日本では、社会における他者とはいたって気安く心を許せる相手である。そもそも、違和の意識よりは親和の意識が基盤となっているのが日本の社会関係のあり方だ。
(同書p156ページより)
日本人の多くは、今住んでいるところの住民達と仲良くしようと努力する。
しかし西洋や中国・韓国では、心を許せる人達とは、血縁・親族関係しかないのだ。
日常的関係が非血縁関係だけで構成されることは、周りは皆、敵ばかり…となり、心が落ち着く場所を失うことに繋がる。
よって日本人が考える以上に、南北分断による家族離反の苦しみや悲しみは激しく、深いものがあるらしい。
また呉善花氏は、日本人は物事を内部化する力の強さを備えていると言う。氏は次のように語っておる。
物事を自分から切り離された客観的な対象としてつかみとろうとするのではなく、トータルなものとしてつかもうとすれば、物事を自分の内面へと内部化していくしかない。この力がもっとも強いのは日本人かもしれない。その鮮やかな事例を、広島・長崎に対する原爆投下への日本人の受け止め方に見ることができる。(中略)私はこの「過ちを繰り返しません」と言う言葉ほど感動を与えるものはないとすら思うようになった。(中略)広島・長崎の状況を、自分の外の客観的な対象ととらえれば、あのような言葉はけっして出てこない。(中略)人類が引き起こした最悪の現実を、そっくり自分の内面に引き受けようとしたときに出てくる言葉なのだ。
(同書160ページから161ページ)
呉善花氏は、敗戦という状況を多くの日本人が、「非戦革命」と、受け止めているというのだ。
これに対して韓国人は、植民地時代の現実というものを、個々人の心の内に内部化してはいないのではないか?と語りかけ、次のように続けておる。
韓国の戦後体制下の社会と教育が言う「植民地支配をゆるさない」とは、原爆投下に並べて言えば、植民地そのものというよりは、それをもたらした「日本を許さない」と強調点を打った主張であり、政府以下すべての国民は朝鮮民族という被害者としてしか位置づけられていない。
(同書162ページから163ページ)
そして氏は続ける。
呉善花氏をはじめとする戦後世代の人たちは、戦後体制下の社会と教育によって、日本民族による朝鮮民族の支配という…朝鮮民族に降りかかった民族の不幸…として考えるようになってしまったと言う。
その結果、「恨の文化」に根ざした「日本への深い恨み」と、「朝鮮民族を支配した」日本帝国主義を決して許さない!とする。
彼女はさらにこう続ける。
その根本的な反省と謝罪をつくしにつくすさまをしっかり見届けて行かなくてはならない、と言う民族の決意のようなものであった。
(同書163ページ)…と。
呉善花氏は、韓民族の主客分離の観点から物事をはかろうとする韓民族の考え方を述べた上で、主客分離せず内部化を試みる日本人の凄さについて述べておる。
則ち日本人は原爆投下や東京大空襲などについて、恐ろしいまでの内部化の力を発動させ、主客分離した視点から言葉を吐くことをしない…と分析しておるのだ。
先日も観光で韓国へ行った若い日本人女性が、韓国人男性から声を掛けられ、無視したために暴行を受けた…という事件が起こった。
日本では、どこの国の人であろうと、女性に乱暴するのは良くない…という程度に考えられておる。
もしこれが、日本に来た韓国女性に日本人男性が乱暴したとしたらどうだろう?
韓国の人達は、またまた反日を振り翳すのではなかろうか?
「恨の文化」が、その根底に流れていることを肝に銘じつつ隣国の人達と付き合う必要があると思う昨今である。