お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

生きがいって何ですか?

自分の生きがいが見つからなくて、自分の人生に戸惑っておる人間が多い。
あまりにも我が人生に戸惑うあまり、何やかや言いながら、日頃のルーテインに、自らが翻弄されるよう、生きている人間も多い。
本人からすれば、忙しい毎日がただ過ぎ去っているので、
「いくら生きがいを見つけたくたって、忙し過ぎて見つけられない!」
などと、平然と嘯くであろう。
ところが、この「忙しすぎる」という、ワンフレーズが食わせ物なんじゃ。

人は皆、幸せになりたい・・・と、頭では考え、時には口に出して言う。
けれども、幸せが目指す「幸せの本懐」には、一向に触れようとしない。
幸せは、今この瞬間を生き抜く「生もの」であり、「生き物」。
その先にあるのが、「生きがい」という概念なのじゃ。

生きがいは、自らが考え行動した結果、現れる効果や効き目が、自分や自分の子孫やその周辺の人々、時には日本全体、世界などにもたらされること。
それによって自分自身が「生きている」ことを、有り難く実感すると共に、「生きること」に対して、無限の喜びを見出す営為といえる。

ところが、「生きがい」がもたらす最上の結果が、本人が生きている時に、現れない場合もある。
時には、良い結果が出ているにもかかわらず、本人も周りも全くその結果に気付かない場合もある。
むしろ気付かないことの方が多い。

「生きがい」とは、結果に左右されずに、楽しく自己練磨する修行法と捉えてみてはどうじゃろう。
修行と思えば、人知れずコツコツ頑張ることも、苦にならない。
人が見ていなくとも、手を抜くことはない。
こんな生き方こそが、「生きがい」という、人生における強者<つわもの>を連れてくる。

従って、自己練磨のための修行法は何でもいい。
毎日多くの人に、笑顔で接していくのもいい。
今勉強していることを、早急に習得するのもいい。

但し、結果を求めることを主眼に置くな!
そうすることで、
「ああ!これが、私の生きがいだったのか!」
と、気づくであろうから。