お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

元号が発表されたのが4月1日。この日を境に、「平成」が急速に遠ざかった気がします。これって私だけの感覚でしょうか?一体「刻(とき)」って何なの?

次の一文を読んでくれるかな?

I was quietly reading the paper in the café when suddenly this guy comes over, snatches the paper out of my hands, and starts screaming at me.
[『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』:大西泰斗、ポール・マクベイ共著P125より]

この文章は、興味深い書き方がされておる。
I wasと言うbe動詞の過去形で始まり、途中は、comes, snatches, starts・・という具合に、動詞の現在形に変化しておる。
この文を見る限り、「過去」に起こったこと=過去形を用いる。
これが絶対的でない事が理解出来よう。

この文を日本語訳すると、次のようになる。

私がカフェで、新聞を読んでたら、(ここまで過去形be動詞)男が近寄って来るの。
(現在形)私の手から新聞をひったくって、(現在形)私に向かって叫びはじめるのよ(現在形)。

・・とまあ、こんな具合じゃ。

「刻(とき)」は、必ずしも「現実の時間」に対応してはおらぬ。
ならば、「刻(とき)」は、何によって決められると考えられるのか?
「刻」は自分自身と、その出来事との間にある「距離」によって、決められておるようじゃ。

我が子を亡くした人が、「あの事件以来、時が止まってしまった・・!」と、表現する。
愛しい人を失った悲しみは、その人自身に流れる「時間と自分の心との距離」を、ゼロ状態のまま凍結させる魔力を持っておる。

事ほど左様に、人間は「刻(とき)」を、その「出来事と自分の心との距離」だと捉えておるのじゃ。

英語は、言葉の配置場所が重要だとされる。
その一方で、助詞によって微妙なニュアンスを伝える日本語は、一つの言葉に助詞が引っ付く事で、その意味合いが異なって来る。
言わば粘着性を有する言語。

然し乍ら、こと、「刻(とき)」に関しては、日本語も英語同様、「時間」という存在を、「距離」として感じ、理解しているようじゃ。

先の一文も、はじめのうちは、話し手自身が「過ぎ去った=遠く感じていた」出来事を話すうちに、その出来事があたかも「今」自分の周りで起こっているように感じられてきた。
そのために、無意識のうちに現在形に変換して表現を始めておるようじゃ。

従属接続詞when 以降の表現が、妙に生々しく感じられるのは、話し手があたかもその場にいるような一文になっているからじゃ。この一文を全て過去形にすると、次のようになる。

I was quietly reading the paper in the café when suddenly this guy came over snatched the paper out of my hands, and started screaming at me. となる。

これを訳すと、・・・

カフェで私が新聞読んでたら、男が近づいて来たんだ。
私の手から新聞を引ったくったの。
それから私に向かって叫び始めたのよ。

・・妙に冷静で、前述の文章とでは、ドキドキ感が減少しておるようじゃ。

毎日毎日「平成から令和へ!」とか、「平成の30年を振り返って・・!」などと言ったテレビ番組がお茶の間を賑わし、各地で元号にまつわる催し物が開催され、元号商戦が活発化しておる。

そうこうするうちに、日本国民の多くが、新元号「令和」に慣れて来ておる。
「平成」と日本人各人の「心の距離」が、徐々に遠ざかって行き、次の「令和」との「心の距離」が、次第に近づいて行く。
この在りようをすべての日本人が、ありありと実感し始めておるようじゃ。

時代との距離感・・!これこそが、「人間と刻(とき)」との、絶妙な関係を如実に表しておるのかも知れぬ。