お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

上皇陛下が「松の間」を御退出なさる時に、「平成の魂」のような空気も、陛下と共に退出したように感じました。時代に魂って宿っているの?

5月1日深夜0時、「平成」から「令和」へのカウントダウンが始まり、元号が移行した瞬間、日本国民は歓喜の声をあげた。それはあたかも年末年始を迎えたかの如くに見えたが、深夜の喧騒を深く感じとると、それとは別種の歓喜である事に思い至る。
それはまさしく、赤子が元気な産声(うぶごえ)をあげる様(さま)に似ておった。

人は、連続する刻(とき)の繋がりに、何故一定の区切りをつけようとするのか・・?
刻(とき)の区切りに遭遇した時、何故歓喜するのか?

それは自らの命、生きとし生けるもの全ての命が、時間に支配され、時間と共に風化し、忘れ去られる宿命にあるからじゃ。
死後残るのは、生前その人が為した仕事や慈愛の深さだけ・・という、シンプルなもの。
有限なる命への寿ぎが、時代や年の変わり目に、無意識のうちに、意味もなく「歓喜」されるのじゃ。

人はその一生を喜怒哀楽と共に生きておる。
克己復礼(こっきふくれいー私欲にうち勝ち、礼儀をふみおこなうこと。)、献身や謙譲、仁愛や厚徳の内に生を終えようとも、堕落・怠慢、冷酷さや残虐さ、無慈悲で欺瞞に満ち、未熟さや軽率さのうちに死すとも・・過不足なく全員が死に至る・・。
一見すれば、人間や生き物にとっての不条理と思えるこの自然の摂理。
この摂理の内にこそ、完全なる「死の平等」がある事を誰もが知っておる。

かるが故に、人は人が決めた一定の区切りを重んじる。
迫り来る「死を予感する」が故に、今を懸命に生きようと踠(もが)き、時の区切りに希望を見出しつつ生きて行く。

人類がこの世に誕生して以来、人々の刻(とき)を手中に納め、人々の刻(とき)を司る者が、王と呼ばれ、帝と呼ばれ、時に為政者と呼ばれたのじゃ。
よって暦は、人々を支配する実に重要なアイテムとなった。

今回の御代替りでは、かつては現人神(あらひとがみ)と崇められつつも、人としての有限の時間を、「御代替り」という、その連続性の内に、隈(くま)なく生き通し、生き続く、日本独自の生命観を体感することが出来よう。

その上で、上皇陛下と今上陛下お二人のお姿を通じ、有限なる「人としての生きる時間」。
この素晴らしさ・美しさ・有り難さ・・を、日本人全員が(外国人も)体感できる・・という、貴重な歴史的体験をさせて頂いておる。
仰ぎ願わくは、國民一人一人がこの体験を経験にまで昇華したいもの。

「終活」という言葉が、巷(ちまた)で飛び交う昨今。
しかし、人や生き物が死ぬ事ほど平等で、豊かな在り方はない。
どんなに強靭な生命力を持つ生き物であっても、いつかは死ぬ。ありとあらゆる人間も、時間と共に死ぬ。

刻(とき)を司る「時魂」(ときたま)は、明らかに、歴代天皇の背後に存在する。
それ故國民は、天皇陛下が身罷れば、この上なく悲しみ、今回のように皇位禅譲されれば、殊の外喜び満ちる。

いよいよ今上陛下の背後に坐す「時魂」が発動開始しておる。
故に今この瞬間を陛下と共に、寿ぎつつ生き抜きたいものじゃ。