お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「国語」って何なの?

夏目漱石絶筆作品は、周知の通り、当時朝日新聞に連載中だった『明暗』であった。
この作品は朝日新聞に188回連載されたという。
『明暗』は漱石の小説中で最長を誇る作品だったが、作者病没のため未完となっておった。

これを完成させた作家がいる。
それが水村美苗(みずむらみなえ)氏である。
彼女は12歳の時に家族とニューヨークに移り住んだものの、彼の地に馴染めずひたすら「現代日本文学全集」を読み漁ったようじゃ。

この彼女が『續明暗』を著した時はセンセーショナルであった。
何と言っても未完のまま凍結されていた『明暗』を、漱石の文体そのままに綴り、見事に完結させたのだから…。

この水村氏が、名著『日本語が滅びるとき…英語の世紀の中で…』の中で、国語について述べておる。
水村氏によれば、言葉は「普遍語」「現地語」「国語」の三つの概念を明確にする必要があるとしておる。
その中でとりわけ重要なのが、「現地語」の概念規定だとする。
水村氏の一文を借りると、次のようになる。


「現地語」とは、理論的に言っても、歴史的に言っても、「普遍語」と対になりつつ対立する概念である。「現地語」とは、「普遍語」が存在している社会において、人々が巷で使う言葉であり、多くの場合、それらの人々の「母語」である。「現地語」が「書き言葉」をもっているかどうかは、さほど重要なことではない。重要なのは、「普遍語」と「現地語」という二つの言葉が社会に同時に流通するとき、そこには、ほぼ必ず言葉の分業が生まれるということである。(中略)それでは、「普遍語」でも「現地語」でもない、「国語」とはどういうものか。(中略)「国語」とは「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」である。(中略)「国語」とは、元は「現地語」でしかなかった言葉が、翻訳という行為を通じ、「普遍語」と同じレベルで機能するようになったものである。
水村美苗著『日本語が亡びるとき』132ぺージから133ページ筑摩書房


もとは「現地語」でしかなかった言葉が、翻訳というプロセスを経て、「普遍語」の如く振る舞い始める…則ちそれは、「現地語」が、知識人によってなされる「翻訳」プロセスの中で、多くの単語が創作され、文法や言い回しが研究される事で、論理的・倫理的・美的・哲学的等々…様々な知的要請にも耐え得る、言語として最高位の質・量・品位等々…の責務を背負わされた言語へと変容を遂げ、「現地語」から「国語」へと変貌したのであった。

言葉が、「国民国家」が生誕するその来歴と、深く・複雑に聯関(れんかん=繋がり関わること)し合い、「国民国家」としての「国民の言語」として結実した。
これが「国語」だと言えよう。
幸いなことに、明治・大正期に多くの言葉を創造する事ができた日本は、近代化に成功した稀有なる国である。

外国の新しい知識・思想・哲学・医学等々、多くの知的表現を日本語にする事ができたこと自体が「奇跡」だと言えるのじゃ。