お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

詩や小説の中で、「時間(とき)」はどんな役割を果たしているの?(2)

俺の震え戦く生涯の陰で 現世がその裏戸を閉め
  五月が織り上げた 絹の帳(とばり)の翼のように
緑の葉を羽ばたかせるとき 隣人たちは語るでしょうか
  「常日ごろ そうしたことに気付かれる方でした」と


昨日のトーマス・ハーデイの上記の詩。
ここにある「震え戦く」という表現の切実さには、思わず息を飲んでしまう。
これに対し、藤井教授は『郷愁』の中で次のように述べている。


 誠実に生き、心底から悩み苦しんだ彼には、「震え戦く生涯」だったに違いありません。私たちには「死」があり「死」が私たちの生存、一切の努力を「水泡」に帰すかもしれません。と言うのは、率直に言って、「恐怖」です。云々…
     (同書p52 6行目から10行目)


この詩には、若葉が翻る様を生き生きと描き、生命の風が流れ来る様子も語られている。
この詩を読むだけで、生きることと死ぬことの境界が定かではなくなってくる気がする。
そうだ、「生と死」に境はないのだ。
また本質的には、その境はあってはならないのかもしれない…と、そんな人間として逸脱した考えさえも浮上してくる。

藤井教授は、また、ハーデイが自分の生涯をstay で表現していることをあげ、


 人生とは「ひとときの滞在」でり、法律用語では「死刑の執行猶予」です。「罪の意識」から逃れ得なかったのでしょう。自分の死を見つめて生きる。やはり「永遠とは滅びること」に他ならなかったのです。
    (同書p53 6行目から8行目)


とも記している。
この世に流れる「時間(とき)」は、種々雑多である。< br>個々人に流れる「時間(とき)」と、一国に流れる「時間(とき)」と、世界に流れる「時間(とき)」。

そんな其々に流れた…かに見える「時間(とき)」は、小川が集まり来て、やがて大河を形成するように…、俯瞰すれば時代・時代の「時間(とき)」の塊となる。

文学作品や音楽にも「時間(とき)」の魔力が隠されている。
いつの間にか自分自身が、宇宙の「時間(とき)」の砂時計の「一粒の砂」…のような、…そんな役割を担っているような、めくるめく錯覚に陥って行く。

個々人を通過する「時間(とき)」は臆病で楽天的。
かと思えば、悲惨で悲愴な装いをものともせず、頑強に生き抜く力までも内在化させている。
文学に限らず芸術全般に言えることだが、「時間(とき)」と格闘する様を、芸術作品を通して見ることで、今ある「生」と、次に赴くべき「死」に、夢と活力を与えるのではないだろうか?

蛇足乍ら、藤井教授のこの書で知った事だが、昨年11月23日に日大の原公章先生が逝去されたとか…。
古語英語やシェークスピア文学に造詣が深かった方だけに、ショックが大きい。
まだお若かったから、その死に違和感を感じるが、シェークスピアを語る原先生のその透徹した瞳を忘れることが出来ない。

生前の原先生のお姿そのものが、「死」を超克する学問の本懐を提示しているのかもしれぬ。