詩や小説の中で、「時間(とき)」はどんな役割を果たしているの?(1)
様々なジャンルの詩や小説が巷に氾濫する。
そんな中にあっては、時間(とき)に対する捉え方や表現は、千差万別(せんさばんべつ)で、個々の作家によって異なっている。
今ここに、常住時間(とき)と向き合い、「変容する時間にどう表現を与えるか?」という問いかけを内在化し表現する人が居る。
藤井繁(しげし)聖徳大学教授である。
時間(とき)を語る…とは、究極の所「死」をどう捉えるか…に繋がってくる。
藤井教授は長年英国の作家トーマス・ハーデイの詩や小説を研究され、自らも詩人でいらっしゃる。
その近著『郷愁 ハーデイ文学の生の軌跡』の一節を次に挙げる。
1917年ハーデイ七十七歳のときの詩集『折々の幻想』の最期の詩「死後は」をあえてとりあげるのは、「ペシミスト」と言われるハーデイの、感情の素直で率直な表白が読み取れるからです。
(上記の著作p51 2行目から5行目)
教授はさらにこう続ける。
この詩の文体の、極めて慎重で、慎ましいと言ってもいい性格の中に、言わば哲学的な主題と、感覚的な直截さが、入り混じっているように思います。「いきること」、それは、すなわち未来を、自己の未来全体を作ることです。晩年の彼にとっては、人生というものが、生を断ち切るものによって裁かれるものではない、と考えていたように思われます。
(同書p51 6行目から10行目)
このように記された後、ハーデイの次の詩が続く…
俺の震え戦く生涯の陰で 現世がその裏戸を閉め
五月が織り上げた 絹の帳(とばり)の翼のように
緑の葉を羽ばたかせるとき 隣人たちは語るでしょうか
「常日ごろ そうしたことに 気付かれる方でした」と
(p52 1行目から4行目)
この詩が醸し出す独特な空気感が、永遠なるものと妙に親和性を保つことに気づくとき、我が心の内なる鐸鈴(たくれい=扁平な鐘形で、内部の舌〈ぜつ〉を動かし音響を発するもの)が、その重低音を響かせつつ、「時間(とき)」と格闘する様を、まざまざと見る思いがする。
明日はこのハーデイの詩を巡って「時間」(とき)」と「死」について考えてみたいと思うのじゃ!