新渡戸稲造はどうして『武士道』を著したの?(4)
「克己」とは何か?
新渡戸稲造は、その著書の中で、
勇気の鍛錬は、どんな事に対しても、ぐちを言わない忍耐の精神を養い、礼の教訓は、自分の悲哀や苦痛をあらわして、他人の快楽や安静を妨害しないようにすることである。
また、こうも述べている。
男子でも女子でも、おのれの霊魂に感激をおぼえるところがあれば、まず自分の本能を静かに抑え、外へあらわさないように努める。たまたま誠実と情熱につき動かされることがあっても、心を抑えきれずに、思いつくままに話すことはまれである。(中略)ある青年武士は、日記に次のようなことを書いている。「おまえは、おまえの霊魂の土壌から、秘めやかな思想が、かすかに動き出してくるのを感じないか。それは種子が芽生えてくるときである。よけいな言葉でもってそれを妨げるな。静かにそして密かに動くままにさせよ」と。
新渡戸稲造は、著書『武士道』の中で、自己の内面の奥底から湧き出す自分自身の声を、淡々と汲み出す営為を重要視している。
「克己」とはまさに、己の心の奥深い所に鎮座する「深層思考力」とでも言うべき宝を引き出す考え方ではなかろうか?
これを滞りなく行う為には、誰よりも自分が自分の内奥に興味も持ち、自己における無限の可能性を信じ続ける努力を怠らず、自らに厳しく、自然や他者から生じた難題・課題、時には、悲劇や苦痛、苦悩に対してさえも、自らが全面的に受け止め、自己責任としてそれと対峙する事。
そして自分が出来得る限りの努力を着実に行う「勇気と行動力」が、「克己」に内在する在り方ではないだろうか?
我が国日本に生まれし日本人の大半が、将又、海外で生誕した日本人の全てに、この「克己」の考え方が行き渡れば、如何なる国の追随をも許さないほど強力な「精神力」を有した国民になることはまちがいないだろうが…。
「克己」を身につけた日本人を数多く輩出したいものだ。