弁証法って何ですか?(2)
今日は西田幾多郎について話そう思う。
西田哲学の最重要単語は、「純粋経験」という言葉。
「純粋経験」とは、意識の原初的(直接的)統一状態のこと。
それは、音を聞いたり、色を見たりすること。素晴らしい音楽を聴き、我を忘れて、その音楽に聴き入っている状態こそが「純粋経験」を体感している時だという。
そんな只中にあって、「私」という意識(これが主観)が、そこに流れくる「音楽」という対象(これが客観)に聞き惚れる。
この状態すら忘れている…これが真の「純粋経験」だということ。
これはまさに「主客二元論」さらには、「物心二元論」という在り方を超えているということ。
主観と客観が二つに別(わか)つ事なく一体となる。これを「主客未分」の状態にあるのだとする。
ところが、あそこの音は音量が大き過ぎたとか、ここの音は想像以上にピッタリきた…!という具合に、批判が介入してくると、「主客未分」だった「純粋経験」が、「私」という「主観」と「音楽作品」という「客観」に、見事に分裂してしまうのである。
ところで、西田幾多郎の著書『弁証的一般者としての世界』には、こんなことが記されている。
我々の個人的自己というものも、単に個人的自己として考えられるのではなく、社会的・歴史的に限定せられたものとして有ると考えられるのである。
人間というものを社会的・歴史的存在として捉え直した背景には、マルクス主義の影響があるのかもしれない。
西田幾多郎は、個人が先にあって、そこから言表(げんぴょう=言葉で言い表す事)が、齎されるのではない…とする。
個人とは、かかる世界の自己同一的限定として与えられるに過ぎず、私達の意識は、社会的意識から始まるのだと言う。
西田幾多郎に於ける弁証法は、「絶対矛盾の自己同一」という日本的視点から展開された。
西洋哲学が論理で証明するのに対し、西田幾多郎は、「直観」「直覚」の意義を重視する。
所謂、非言語的なものによっても「存在を認識できる」という真実を、我々に突きつけてきたのだ。
世の不条理が個々人を襲い、世界の国々との文化・政治・経済上での衝突が起こっても、「言語」だけでなく、目に見える「涙」でもなく、もっともっと深く深淵なる心の深奥部から、全てと向き合う事が必要だと言うのであろう。
この「至誠」に根ざした、西田幾多郎の愚直な生き方・考え方に頭が下がるのである。