お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

来年、令和2年からの大学入試はどうなるの?(2)

日本社会並びに、国家を強化する為に重要となるのが、教育である事は誰もが認めている。
しかし、現今の教育の在り方に対して、日本社会が抱える課題は多い。

まず第一に偏差値重視の教育が齎す弊害だ。
小学校から始まる中学入試・高校入試・大学入試の全てにおいて、偏差値が重視される。
かるが故に、偏差値で学校選びをしてしまう生徒が大勢いる。
小・中・高、其々の入試に臨むにあたり、常に偏差値が念頭から離れない癖が付いている。

その結果、親子共に本質的でない、「学力偏差値」によって希望校を選別する…という不条理。
これに慣れきってしまっている。これでは、学ぶことの面白さや豊かさを享受するのは難しい。

何よりも、「偏差値」という唯物論的基準でしか入試を把握しないために、学びが機械的になり、学ぶことに主眼が置かれるよりも、学校に合格しさえすれば良い…という短絡(たんらく)的考え方に陥りやすい。

第二に、高校入学早々、理系・文系に二分化される為、基礎知識が欠落すること。
文系の学生は理・数が弱く、理系は国語と社会、とりわけ歴史に弱い。
知識における欠損が、物事を俯瞰的に把握する力を蝕(むしば)んでいるのではなかろうか?

第三として、これは小学校から言えることだが、生徒一人一人から、より高い脳力を引き出す…と言うより、大人しく、安全で、平均的な人間を育成する事に意識が向いていることが問題である。

何もかも平等にしようとするあまり、一人一人の特性を無視せざるを得ない状況にある。
個々人の個性が発現する前に見られる特性や性質を、もっと大切に育まねばなるまい。

遅くなったが、昨日申し上げた「大学共通テスト」について少しだけ述べたい。
およそ30年ぶりに大掛かりな入試改革がおこなわれる。

今までの大学入試センター試験では、知識・技能が試される出題が際立っていた。
一方「大学入学共通テスト」では、知識・技能を活用した考察のプロセスである思考力・判断力・表現力を問うものが、多く出題されるという。

民間試験を利用する事も可能となった英語。
まず大学入試として活用出来る資格・検定試験を国が認定する。
大学受験に利用出来るのは、高校3年生の4月~12月の2回迄の受験結果に限られる…という。

受験生は資格検定試験の出願時に、大学入試に利用することを申請する。
各々の試験実施団体が、大学入試センターに成績を送付するということらしい。
大学入試センターから、各大学には認定試験結果と、6段階在る国際基準CEFRに対応した段階別が提供されるのだ。

英教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エジュケーション」を運営するTES Global社は、世界大学ランキングの「日本版」を出している。

それによれば、総合ランキングベスト3は、東大・東北大・京大で、教育満足度は、国際教養大学・東大・京大がトップ3となっている。
教育リソースでは、東京医科歯科大学・東大・京大が占め、教育成果では、東大・京大・阪大の順。
国際性では、立命館アジア太平洋大学大阪経済法科大学東京国際大学が上位3大学となっている。

上記大学の内、最近台頭(たいとう)している国際教養大学立命館アジア太平洋大学などは、独自路線で大学なりの哲学に基づいた教育を施している。

今後は今まで以上に、各大学が各々の教育理念に立脚した入試改革や改良を行い、独自路線で、教育プログラムを構成し、それを遂行しなければなるまい。

例えば、「グローバル・スタンダード」と言う在り様。今や世界的にみて、グローバル化は時代遅れになりつつあるのに、彼方此方(そちこち)の大学が、「グローバル化」を掲げる風潮がある。

大学自体が学問や学生・研究者と真摯に向き合うのは無論のこと、大学で学び・研究する者自身も、直向(ひたむ)きに生き、世の中の役に立とうとする心構えが必要ではなかろうか?

何とならば、国に教育を任せていても何も変わらないから。
国が教育改革を掲げてうまくいった試しがない。

今こそ、心ある国民一人一人が、自らの努力で教育を変えようとする心構えが必要なのである。