『歎異抄(たんにしょう)』について教えて!(1)
『歎異抄』は、親鸞さんが語った言葉を、後に弟子の唯円(ゆいえん)が書き留めたもの。
親鸞さん自らが著したものは、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という難解な書物であったため、一般には『歎異抄』の方が人気があると言われる。
親鸞さんが自らの言葉を用い、一人一人の衆生に語り掛ける、親鸞生身(しょうじん)のお言葉として、今尚、生々しく、我々一人一人の耳底(じてい)に語りかけ、その言葉の一つ一つが、我々の心に響いてくるようのだ。
『歎異抄』で、一般によく知られている言葉は、
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
である。
これは、善人でさえお浄土に往生することができるのだから、まして、悪人がお浄土に往生できないことはない…と言う意味になる。
親鸞さんお得意の逆説的表現が用いられているといえよう。
親鸞さんは、自力から他力への抜本的(ばっぽんてき)変容を遂げずして、本当の信仰心に至らない…と考えているのだ。
一人一人の心の奥底に眠る「人間としての絶対的自信」を、内外共に発揮する為には、「内的変容」が必要不可欠となる。
「内的変容」を志向するには、人間一人一人の心の中で、「内的変革」を喚起させようとする気持ちが大事。
この「内的変革」は、個人に執着せず、全てを阿弥陀様に委ねた途端から始まるのだ。
親鸞さんは、言葉の持つ限界を超克し、言葉に秘められた力に、パラドックス的視点を加味し、見事な言葉の束を民衆に届くように投げかけていく。
そうすることで、個々人の内奥に、根本的な変容が芽生えてゆくのであろう。
「地獄は一定(いちじょう)住処(すみか)ぞかし」とも語る親鸞さん!
地獄こそ、確実に私のすみかなのだ…と言い放つ親鸞さんは、まさに、言葉の魔術師とも言える 。
弱く、情けなく、どうしようもない「凡夫たる自分」。
この自分を愛でて、自分の本性と出会う旅…。
これを求めてを生きていく。
そこには常住、阿弥陀様が坐(ま)しまして、この「阿弥陀様」を信じ貫き通すことで、終(つい)の歓びに満ち満ちて行く。
そうすれば不完全な自分を認めることが出来るようになる。
ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱える事で、最も人間的で真っ当な「自分の人生」を満喫出来る!
という画期的人生道を提示したのが、親鸞さんだったのではなかろうか?