お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

十分な『学習資本』を持たない若者が社会に放り出されるってどんな事?

苅谷剛彦(かりやたけひこ)氏によれば、『学習資本』という言葉の定義は、次のようになる…と、苅谷氏の著書『学力と階層』の解説を書いておる内田樹(うちだたつる)氏は語っておる。
これを引用したいと思う。

「努力する能力を早い時期に損なわれた」集団が日本社会には解離的に存在しており、その隔たりは、日々拡がっている。階層上位の人々は、「強者連合」的な相互扶助・相互支援のネットワークを享受しているが、階層下位の人々は分断され、孤立化し、社会的流動性を失っている。それが苅谷さんが「『学習資本』の階層差」と呼ぶ事態である。
(『学力と階層』苅谷剛彦朝日新聞出版340ページ)

努力する能力を損なわれた若者が大量に生み出される。
すると身につけるべき事を身に付けていない若者の集団を支援するための「社会的コスト」は想像を絶するほど高くつく。
それだけではない。
努力する能力を損なった若者が次世代へ及ぼす影響は、計り知れないものとなる。

そこでよくとられる方策として、同学齢集団内で学力を競わせる手法。
この手法が受験競争という名のもとでとられておる。
すると子供達は、自分の学力が上がる事に終始し、他人の学力が下がる事を意識・無意識のうちに望むようになる。
いわゆる直接・間接的に他者を学力差によって蹴落とすことを望むようになる。

「努力することができる能力」の階層的不公平さと、慢性的に「努力する意味」を人生の中で見出せないことが、根源的な教育の退廃を導き出しておることに気づかねばならぬ。

努力したかしなかったか?の判断を含め、「日々努力し続けること」を希求する強い意志は、個々人の内面の奥深いところの成長によってしか促すことができないのじゃ。

『学習資本』としての「努力できる学習体力」が、身についていない子供の人生は、偏狭で閉鎖的且つ他者からの「不必要な援助」無くして、人生を過ごすことができない…事となる。
このありようは、人間の尊厳を著しく損なう様相を呈する(ていする=あらわす)であろう。

「努力できる人間」となり、人と比べるのではなく、自分と対峙することの重要性を体感するべく、一日一日を大切に生きてゆきたいものじゃ。