お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「努力する力」はどうやったら身につくの?(1)

そもそも「努力する力」は、全ての人に平等に・均等に分け与えられているものではない。
あくまで平等且つ均等に分配可能なものというのは、その多くは、肉眼で見ようと思えば見えるものに限られておる。

愛情を直接見ることは出来ないし、残忍な心も見ることは出来ない。
ただ愛情の表れの一部分だけ、垣間見ることは出来る。同様に残忍な心の一端も垣間見られるが…。

とりわけ個々人が「努力する力」というのは、その人の出身階層に影響されると言われておる。
「努力する力」がその人に備わっているかどうか…?は、その人と深く接しない限りわからぬこと。

然し乍ら、社会的階層が上位に位置する家庭で養育された子供達。
彼らは「努力する」ことの意味とその効用を信じることが出来ていることが多い。
然も努力することによって得られた「社会的成功者」に取り囲まれて育つ…という体験をすることが多い。

その一方で、社会的階層の下位に属する家庭で育った子供達は、個人的努力と社会的達成との相関関係を認知していない。
彼らは努力すればするだけ、社会的にも達成度が高くなる…など、努力は凡ゆる点でより良い影響を及ぼす事を知らない。

彼らの多くは「努力は実りある人生を導き出す…!」という考えを持つ大人との出会いよりも、「努力するのは無駄に等しい」と考える感覚を持つ大人達と多く出会っておる。

以上のような社会的条件の相違は、「努力する事を惜しまない」子供に育つか、育たないか?といった、その子供の根源的な生き方の問題へと繋がってゆく。

ならば「努力する力」をどうやって身につけていくのか?それが例え、社会的に見て下位の階層に属するとしても…!
この点について、明日考えてみたいと思う。