本来的な意味での義務教育って何なの?(1)
日本国憲法第26条1項には、次のような一文が記されておる。
「全て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」
又第2項には、
「全て国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」
ここには子供の義務は記されておらず、親が自分の子供に教育を受けさせる義務を負っているだけ。
これはどうしてか?
それはこの26条によって、「子供達を親から守るため」だったからじゃ。
マルクスの『資本論』には、こんな文章がある。
「夜中の二時、三時、四時に、九歳から十歳の子供たちが汚いベッドのなかからたたき起こされ、ただ露命(ろめい=露のように儚い命)をつなぐためだけに夜の十時、十一時、十二時までむりやり働かされる。彼らの手足はやせ細り、体躯(たいく=からだつき)は縮み、顔の表情は鈍磨(どんま=感覚が鈍くなること)し、その人格はまったく石のような無感覚のなかで硬直(こうちょく=身体が硬くなる。考え方が柔軟性を失う事)し、見るも無残(むざん=残酷な事)な様相を呈している。」(『資本論』第1巻上、今邑仁司訳・筑摩書房2005年)
又フランスでは親からの児童虐待が激しかったという。
アンリ3世による1579年の告知では、「親が同意を示さない未成年者の婚姻は、誘拐とみなし、誘拐した者は死刑に処す」とされているとか!
このように絶対王政時代は、親は子供を処罰する権利を享受していたのだ。
これは結果的に、家庭内に権力のヒエラルキーを持ち込んだ事になる。
ヒエラルキーとは、狭義ではカトリック教会のおける教階制を意味したり、広義では中世欧州の封建社会の身分構成を指しておる。現代では階層制や位階制と呼ばれる。
ルイ15世は1763年に勅令を出し、「家庭の名誉と平安」を危険にさらす可能性のある行動に走った若い男女。彼らを西インド諸島にある「シラード島」の海軍や陸軍の直轄地へ流刑にする権利。これを親に与えたのじゃ。
この勅令によって流刑地に送られた子どもたちは、厳重に監視され、食事すらろくろく与えらられず、過酷な労働を強いられたという。
こういった我が子の家庭教育?に対して、イエズス会は次のように主張した。
こどもは神が創り給うたものだから、より良きキリスト教徒にしなければならない。
親はこども達を自分達の好きにしてはいけない。
ましてや殺してはいけない。
両親は子どもを、自分の所有物のように酷使することはできない云々…。
斯くして「義務教育」という理念は、「親による懲罰」と「親と雇用者による子どもの収奪」を、公的機関が規制することを目的とし誕生したものなのじゃ。
日本にPTAが出来たのはGHQの要請で生まれたもの。
米国と日本ではPTA活動は盛んだが、欧州ではそうでもない(親の組織自体がない…と言われておる)。
何故「義務教育」があるかと言えば、かつては子どもを親の「親権の及ぶ範囲」から遠ざけることを第一目的としていたということじゃ。
そんな中で現在の日本・世界の教育で何が一番重要になってくるのか?について、また述べたいと考えておる!