お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

一度覚えた英単語や英文法をすぐ忘れてしまいます。どうしたら長く記憶できるの?

覚えたものをすぐ思い出す事ができれば有難いが、なかなかそうはいかぬもの。
儂も最近、頓に物忘れが多くなって困っておる次第じゃ・・。

ところで、記憶には「短期記憶」と「長期記憶」があることは既に話しておる。
今回は「体験記憶」と「知識記憶」について話すことにする。

「体験記憶」というのは、過去の体験が絡んだ記憶の事を指す。
一方「知識記憶」は、何らかの手掛かりがないと思い出せない知識や情報の記憶を言う。

一般に「ど忘れ」するというのは、基本的には、「知識記憶」による内容だと言えよう。
テストの際に試される記憶の多くが、この「知識記憶」に由ると言える。
そのため、記憶を効率よく呼び醒ます工夫が必要となってくる。

どうすればより効果的に学習し、それをシステマテックに記憶に留める事ができるか・・と言えば、何よりも「知識記憶」を「体験記憶」へと変換させることじゃ。
更に言えば、「体験記憶」をより強力なものとするために、「体験」を「体験」のままに放置せず、「経験」へと昇華させる事で、記憶は万全なものへと変身する。

この間、小学校の時に皆(生徒のみならず教員も含む)で埋めた「タイムカプセル」を掘り出すというプロジェクトを、テレビのある番組でやっておった。
過去の皆の記憶を辿り、その記憶に基づき、地雷探索時に用いるような最新機器を用い、記憶された近辺を探索しておったが、遂に見つからず仕舞い。

また「タイムカプセル」が見つかった他の学校でも、皆が記憶する場所ではなく、辛うじて残っておった写真を手掛かりに、漸く探し当てておった。

事程左様に、皆で一緒にカプセルを埋める・・という「体験記憶」をしていようとも、年月を経れば、記憶は摩耗する。
この記憶をいつまでも鮮度の高い状態で保ち続けるには、「体験」を「経験」へと誘って行く必要があろう。

逆に言えば凡ゆる事を、先ず「体験化」する手立てを発見し、これを「経験化」する。この際に必要なのが思索する力じゃ。これこそが記憶力アップに最適な力だと言えよう。
記憶を最短で確実なものとするには、自分が習った事を人に教えると良い。
一旦自分が記憶したことを「アウトプット」すると、そこには様々なテクニカルワードが絡まり合い、緻密化するプロセスへ突入する。
このアウトプットが進めば進むほど、その知識が「体験化」され自分のものとなってくる。

更にそこで一捻り、自分らしいニュアンスを付加すれば、その知識は忽ちのうちに汎用性(はんようせい…一つのものを広く色々な方面に用いること)を帯び、納得した形で脳に染み付いて行くのじゃ。
他にも他者に説明することで、自分がそれを理解できているか、間違っているかを確認できるオマケまで付いてくる。

いずれにせよ「体験記憶」は、次第に「知識記憶」に置き換えられて行く。
放っておけば、前述した如く、「タイムカプセル」を埋めた位置の記憶が薄れ、忘れ去ってしまう。
こうして単なる「知識記憶」になってしまうと、思い出すキッカケが無ければ、思い出せなくなり、そのまま記憶が消え失せてゆくのだ。
そこで先の「タイムカプセル」を例にして、「経験記憶」の話をしたいと思う。


まず「タイムカプセル」を埋める事に対する重要性の確認が必要。
何故「タイムカプセル」にせねばならないのか…について討論し、皆でこれを熟考する。
その時の「乗り」だけで大掛かりな事をやると、どんな結末を招くか…という事まで、話し合う事。
その上で已むに已まれず、斯くなる上は実行に移すしかない…となれば次に何をするか…。

先ず、カプセルを責任持って保管する責任者を決めるべき。
学校の明確な敷地や近隣の状況を書類で確認し写真や動画を撮る。
それらの資料を責任者が保管する。資料以外にも目視で確認の上、近隣の状況から形状の変化を予測してみる。
カプセル附近が掘り出されたり、建造物が建てられる際には、カプセル責任者に必ず知らせが来る様手配する。

又、カプセル自体も頑丈で保管能力の高い容器を用いるなどなど…。
複数の対策が講じられていたなら、恐らく先のカプセルは、安全且つ容易に発掘出来たであろう。


単なる「体験」を経るだけでは、何も生じない。
ところが「明確な意志と意図」を持って事にあたれば、其れが「熟考する」というフィルターを通過することで、「経験」という熟成された「在り様」に到達する。

記憶も然り。
いい加減な気持ちで「体験記憶」や「知識記憶」(来週テストがあるから、意味がなくても一応覚えよう…など。)するだけでは、本当の意味で記憶に留め置かれない。
一見意味がない事であっても、これを意味あるものへと変換させ、自分自身のためになる様、試行錯誤し工夫を凝らしてみる。

すると、記憶力アップだけでなく、何事に対しても諦める事なく、自分なりのやり方を模索する力が内在化する。
これが結果的に「生きる力」へと熟成されて行くのじゃ。
最近、初めから記憶する事を拒否している学生が多くなっている。

かと思えば、何でもかんでも覚えようとして、その結果何も身についていない学生もおる。
何れも「もの」を考えずに生きている事には変わりがない。
賢く生きる事は、賢く記憶することに繋がっておる気がする。

脳は入力よりも出力を歓迎する存在。
賢く記憶し、記憶した事を楽しくアウトプットして欲しいものじゃ。
其れが、「賢く生きる」ことに繋がる…と思うのだが…如何かな?