『歎異抄』について教えて!(2)
『歎異抄』には、
「なにごとも、心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども一人(いちにん)にてもかないぬべき業縁(ごうえん)なきによりて害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人千人を殺すこともあるべしと、仰せのそうらいしは、われらが心の善きをば善しと思い、悪しきことをば悪しと思いて願の不思議にて助けたまうということを、知らざることを仰せのそうらいしなり。云々…」
(『歎異抄』声に出して読みたい日本語3草思社80〜82ページ)
と記される箇所がある。
この一文の意味は、
「どんな事でも自分の思い通りに出来るのなら、お浄土に往生する為に千人を殺せと私が言ったら、直ぐに殺すことが出来るはず。しかし、一人も殺すことが出来ないのは、殺すべき縁がないから。自分の心が善いから殺さないわけではないのである。又、人を殺すつもりがなくても、縁が寄り来(きた)れば、百人でも千人でも殺すこともあるだろう」
と仰せになった。このことは、私達が、自分の心が善いのは浄土往生にとって善いことであり、自分の心が悪いのは往生にとって悪いと思い込んでいて、本当は「本願」の不思議なお導きによって救って頂く…ということを、知らないで居ることを、親鸞様は仰せになりたかったのです。
と、この様な意味になるのだろうか?
人を何人も殺(あや)めた悪人を見て、心の中で、
『あんな酷(むご)い事は、私には出来ないし、あんな極悪人(ごくあくにん)は見たこともない…』
などと思うことがある。
しかし、人間は互いに大して差がなく、自分の心が善だから人を殺さない…というわけではない。
そんな時親鸞さんは、阿弥陀仏の本願に出会わせて頂いてこそ、その本願を誇り、甘えることができると仰る。
又、親鸞聖人は、人間はふと、そうしなければならない縁が催せば、どんな悪行でもやってのけるものだ…とも仰っている。
過去の世における行いの結果も含めて、人間とは、かく迄に(かくまでに=こんなにまで)弱く、情けない生き物である事よ…と、思わずにはいられない。
しかし、寧(むし)ろ、弱く情けない人間だからこそ、全てを阿弥陀様をはじめとする「サムシング・グレート」にお預けして、喜びに満ちた日々を、慎んで、有り難く過ごさせて頂くことが出来るのではなかろうか?
弱く情けない自分を愛(め)でる心を育みつつ、見えざる「サムシング・グレート」に、心からの感謝と敬意を表したいと思う。