お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

「いつきのひめみこ」(伊勢斎宮)って何のこと(2)?

天皇様の御杖代(みつえしろ)と呼ばれる「名代」(みょうだい=代理)となって、神様に奉仕する未婚の皇女(もしくは女王)の斎王には、「斎宮」と「斎院」の両義がある事は昨日述べた通りである。
斎宮」が伊勢神宮を、「斎院」が、下鴨・上賀茂の賀茂社の其々の神々をお祀りしたのである。

伊勢斎宮は、制度として整備されたのが、七世紀後半からで、天皇親政を目指した後醍醐天皇の「建武の中興」時代の十四世紀迄、六十数名の斎宮を生み出し、六百六十年の長きにわたって伊勢に斎宮が置かれたのだ。

一方、九世紀初頭の嵯峨天皇皇女の有智子内親王(うちこないしんのう)を初代とした賀茂斎院は、十三世紀初めの後鳥羽天皇皇女の礼子内親王迄、賀茂斎院を勤めた方は、三十五人を超える。
こちらは凡(およ)そ四百年続いた。

斎王も斎院も、天皇の代替わり毎の交代を原則とし、又、例え在位中であっても、清浄を旨とする職務故に、病(やまい)や服喪(ふくも)によって、退下(たいげ)を余儀無くされたのであった。

さて昨日の続きを述べたいと思う。
京を出立(しゅったつ)した一行は、五つの頓宮(とんぐう)、勢多(せた)頓宮・甲賀(こうが)頓宮・垂水(たるみ)頓宮から、鈴鹿(すずか)峠を越えて伊勢国に入り、鈴鹿頓宮・壱志頓宮と五泊し、六日目に多気(たき)の斎宮に入ったのだ。
(但しこの道は、仁和二〈886〉年に新道が開かれてからのものである。)
「伊勢斎宮」は、群行の日々を重ねつつ日々の潔斎も行った。
こうして神に近い存在となって伊勢に赴いたのである。

伊勢斎宮が暮らした宮殿跡と斎宮領の所在については、「幻の宮」とされてきたが、昭和四十五(1970)年から始まった発掘調査で次第に明らかになっている。

斎王は、歴代天皇に代わって神宮祭祀に奉仕することを本務とするが、具体的には、神宮の三節祭に奉仕したのである。
それは九月の神嘗祭(かんなめさい)と六月・十二月の月次祭(つきなみさい)である。

まず祭前月の晦日みそか)、斎王は斎宮近くの尾野湊や秡川で禊(みそぎ)し、当月15日に斎宮を発ち、神宮と斎宮の中間に置かれた離宮院に泊まる。
翌十六日には、度会宮(わたらいぐう・外宮)祭祀を行い、離宮院に戻って泊まる。

十七日には、皇大神宮(内宮)祭祀を行い、再び離宮院に戻って泊まる。
四日目の十八日、離宮院から斎宮に戻られる。この間、要所で堺祭や禊を行う。
後は、元日の神宮遥拝(ようはい)・二月の祈年祭・十一月の新嘗祭など、農耕に纏わる祭祀や、毎月のお朔日(おついたち)の忌火(いんび)・庭火祭(にわびさい)・晦日の解除(はらえ)などの祭祀が斎宮で執り行われたのだった。

様々な文学や絵にも描かれた斎王の存在。高貴で清らかな存在であるが故に、古(いにしえ)から尊崇の対象であった「いつきのひめみこ」。

二十一世紀の現在にあっても、斎王が國を想う「祈念の力」を忘れずにいたいものである。