お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

平成を振り返ってみると、天災が多かった気がする。どうして災がこんなに多いのかな?

八年前の今日、わしらは、生き地獄の様相を、テレビやインターネットを通じて目撃した。
地震が起こっただけでも、怖ろしいのに、その後に起こった津波の、圧倒的怖ろしさに、我が目を疑い、愕然としたものじゃ。
多くの人が、一瞬にして、地獄の底に吸い込まれて行く様は、到底この世のものとは思えぬものじゃった。

それだけではない。
福島の原発事故によって、高濃度の放射能が放出され、いつまでたっても、その濃度が下がらなかった。
その結果、この事故の風評被害が大きくなってしまった。
原発事故によって、故郷を追われた人々の<寄る辺ない心情>を思うと、胸がはりさけそうになる。
二度とこのような大災害を招きたくない…とは思うものの、実際のところ、自然相手では、手の内どころがないのも事実じゃ。

ならばどうするのか?
津波が襲ってきたにもかかわらず、ちょうど神社の鳥居のところで止まったという場所があるらしい。
また、あの震災で津波被害にあった地域の高台には、<ここより上に家を建てよ>という碑が建てられていた所もあったと聞く。

昔から言い伝えられてきた、その土地、土地の歴史に、目を向けることも大事なことじゃろう。
また何より、人間同士の繋がりを強固にする必要があろう。
しかし人間同士の繋がりは、どうやってできるのか?と問われれば、人間と人間との間に存在すべき、神仏の存在が不可欠となる。

何故ならば、神仏という名の、<見えざる高貴なる存在>を、人間ひとりひとりの心の奥底に秘めることでしか、<真なる人間関係>を築くことはできないからじゃ。
よって神仏を全く信じない…、はたまた、神仏の存在を、誰からも教わっていない人間でさえ、日本人ならば、皇室の方々に対し、親しみを感じたりする。
そこには、自分自身を超えた<高貴なる存在>を仰ぎ見ることで、お互いの<存在意味を共有>しておるからなんじゃ。

みんなで、人間同士、<絆が大事だ!>と言いながら、その一方で、おれおれ詐欺に騙されるな!とか、アポ電に気をつけろ!などと言う。
絆大事というならば、悪人も大事ではないか?
自分を助けてくれるから、良い人間で、自分を騙す人間は悪い…ということ自体が、身勝手かもしれん。
自分を助けてくれる人のことは、神仏が我が身を助けるべく差し向けた有難いお人だと思えばよい。

自分に悪さを仕掛けて来る人間は、神仏がこの悪人を改心させることを通じて、貪瞋痴という<強力なる業>を超えようとする、人間としての強い意志を培えと、伝えておるのじゃろう。

従って、悪人には、二度と悪さが出来ぬよう、注意深く対応し、対処するが良かろう。
悪事を実践しようとする御仁に、二度と悪さが出来ぬよう、協力するのもまた、神仏を信じる人間にしか出来ぬ、大いなる仕事なんじゃ。
その大いなる仕事を、沈黙しつつも、じっと目を凝らして観察しておるのが、大自然なのじゃ。

人間同士、真なる<人間関係>を築くためにも、サムシンググレートの聖なる声に耳を傾けるべきではないかな?