お不動様のひとり言

お不動様のお言葉に乗せた、ほのぼの心嬉しいお話のブログ。

私は佛様の中でも、お不動様が大好きです。
お不動様のお名前の由来は、ゆるぎない悟りを求める心…ということです。

絵像では、燃え盛る火炎を背負い、眷属(けんぞく)の矜羯羅(こんがら)童子と、
制多迦(せいたか)童子を従えているのです。

このお不動様のお言葉に乗せて、
ほのぼのと心嬉しく豊かになるお話をしたいと思います。

不得意科目をどう克服したらいいのかわかりません。誰にも相談できないんです。どうすればいいの?

誰でも勉強に限らず、得意・不得意があるものじゃ。
それが個性となる場合もある。
とはいえ、不得意なものを、日々やらねばならないとすれば、人間誰しも憂鬱になってくる。

先づ、不得意科目が出来てしまった原因は何か?を、思い出してみることをお勧めする。
例えば、

 (1)厳しすぎる英語の先生の叱責に耐えられなくなった。
 (2)クラブ活動中心の生活で、勉強まで手が回らない。
 (3)気を抜きすぎて、気がついたら成績が地に落ちていた。
 (4)中学の時は、簡単に思えた数学が高校に入った途端難しくなった。
 (5)先生のおっしゃる事が理解できない(説明が下手?)

等々・・様々な原因があるであろう。

その原因を全て、紙に書き出してみる。
次に、書き出した原因をジャンル別に分別してみるのじゃ。

例えば、ジャンルAは、先生が原因と見られるものばかり集める。
ジャンルBは、自分自身が原因と思しきもの。
ジャンルCは、友人が原因となるもの。
ジャンルDは、どこと言って悪いところがないはずなのに、体調がすぐれない・・などという、体調に関するものを集めていく。
ジャンルEは、クラブ活動が原因と思えるもの。
ジャンルFは、家族関係に関係するもの。
ジャンルGは、いくつかのジャンルが複合的になっているもの。
その他に属するものは、ジャンルHに集めていく。

こうして出来るだけ多くのジャンルを設定し分別したものを、一枚の紙に図式化していく。

するとある決定的な事実に気付くはずじゃ。
不得意科目を作る原因の多くが、自分自身が、「学ぶこと」の根幹を、「他人の善意の協力」に委ね続けている・・ということに。
自らが学ぼうとする折に、いつも他人頼りする自分自身に気付くことであろう。

詰まる所、形而上(現象を超越し、その背後にあるものの本質・存在そのものを、純粋思惟や直感に基づき探究すること。)、並びに形而下(時間・空間のうちに、形をとって現れるもの。)の双方から学ばして頂ける・・という、人間にだけ許された「学びの自由」が、他者の手に委ねられている事実と直面することとなる。

日本人であれば、義務教育、並びにほぼ義務教育化されている高校、将又(はたまた)大学や大学院に至るまで、自分自身が好む・好まない・・にかかわらず、カリュキュラムに沿って学んでいるにすぎない。

翻って、自らが学ぶ・・とは、如何なることか?
たとえカリュキュラムに則って学んでいたとしても、自らが強く望んで「学ぼう」と決意する事。
決められたカリュキュラムの中でも、とりわけ心惹かれるものを中心に、「自らが学びたい・・」と、強く意識しそれを実践する。

そうすれば、今までと同じように見えても、全く異なった「新生の自分自身」と遭遇し、今まで嫌いだったものも抵抗なく、学び始めていることであろう。