「奇跡の人」と言えば、ヘレン・ケラーの事だけど、ヘレンを指導したサリバン先生ってもっと凄い人だと聞きました。二人の事を詳しく教えて!
日光東照宮の神馬(しんめ)が休息する「新厩舎(しんきゅうしゃ)」と呼ばれる馬小屋の屋根の下に、三匹の子猿、「み猿・きか猿・いわ猿」が彫られた「三猿」の彫刻がある。
これには子供時代は、世の中の悪い事を、見たり・聞いたり・言ったりせずに、素直なまま育つように…と言う意味が込められておる。
人間が力を発揮する…或いは、他人とコミュニケーションを取る時に必要な能力である、「見る・聞く・話す」の三要素は、必要不可欠な要素であるが故に、薬になるだけでなく、使いようによっては毒にもなる事を暗示する。
ヘレン・ケラー女史は、この三要素を1歳9カ月の時罹患(りかん)した病によって失った。
視力・聴力を喪失し、その為最低限のコミュニケーション能力さえ身につける事が出来ず、まるで野生の獣のような振る舞いをして生きていたのだ。
凡ゆる事を明確に理解し、体験する前に罹患した幼い少女。彼女の前に立ち塞がる世界は、何も見えず・何も聞こえない暗黒世界。
この只中に放り込まれた幼女が、日々体験する日常の悲惨さは想像するに余り有る。
日常的に癇癪を起こし、人を打(ぶ)ち、物を投げ、あらゆる物を壊そうとする荒んだ日々は、地獄以外の何ものでも無かったであろう。
こんなヘレンを根気強く指導し続けたのが、サリバン先生。
やがて全世界の人々の模範的生き方を体現する人となったヘレン・ケラー。
この逸材を育て上げたヘレンの師サリバン先生の正式な名は、「アン・マンスフィールド・メイシー」で、ニックネームは「アニー」。
アニーは、米国北部のマサチューセッツ州の入植者で、貧しいアイルランド移民の家庭で育った。
5歳の頃に眼病を患ったものの、これを治療することなく視力を失う。
アニーの母は、肺炎で亡くなり父はアルコール中毒となる。
この父の手でアニーは、不衛生な孤児院に兄弟と共に放り込まれる。
この孤児院で弟も亡くなっている。
アニーは14歳で盲学校に入るまで読み書きすら出来なかったという。
盲学校に入学してからの彼女は猛勉強した。
また数度の目の手術で視力が回復し、卒業式では総代のスピーチを務めるほどになったのだ。
しかしながら卒業後の就職先は決まっておらず、将来をあれこれ思案していた折に、アラバマで盲ろうの少女のための家庭教師を探していると言う話を耳にする。
南北戦争で北部の敵であったアラバマ州に行くのには抵抗があったらしい。
然し乍らそんな事を言っている場合ではない。
アニーは、早速この家庭教師の仕事に食い付いたのだ。
そしてヘレン・ケラーが後に、「私の魂が誕生した日」とよぶ1887年3月3日。
ヘレン・ケラー7歳、アニーことサリバン先生20歳。
この日サリバン先生は、アラバマ州スカンビアにあるヘレンの家で、ヘレンと運命の出会いをした。
サリバン先生はヘレンを、彼女の家族から切り離した。
自らも失明体験していた先生は、ヘレンの心情をよく理解していたのだ。
家族がヘレンの言いなりになればなるほど、ヘレンは暴れざるをえなくなっていた。
且つ又、ヘレンが暴れれば暴れるほど、ヘレン自身がどんどん傷付いていく事を…。
サリバン先生は根気強く、ヘレンに人間らしいマナーを、一つ一つ教え込んだ。
彼女がヘレン宅へ着任して2週間が経つと、ヘレンは随分落ち着きのある女の子となっていた。
先生が来て1カ月経った頃の事。
事あるごとに、先生はヘレンの「掌」(てのひら)に、その物を意味する単語の綴りを書いていた。
机なら「desk」・林檎なら「apple」…という具合に。
お陰でヘレンは、物の名前に興味を持ち始めていたのだ。
そして4月5日の衝撃の朝が訪れた。
言葉の深遠さを知る「water」を体感・受容した朝。これがやって来たのだ。
視力・聴力を失う以前から知っていた「水」の存在。朝食時にマグカップで飲む水も井戸水も同じ「水」。
でもヘレンにとっての「水」は、この日の朝まで、名も無き「現象世界」の中に蠢く群衆…則ちエキストラの一員でしかなかった。
ところがその「水」に名前が齎され、その名を知ることで、その名でしか表現し得ない広大な世界が、延々と展開して已まない…と言う無限の喜びを、生まれて初めて知ったのだ。
ヘレンはこの日のうちに、三十個もの単語を覚え、5月の終わりには、語彙数が300にも達していたという。
その後もサリバン先生と二人三脚で学び続け、更に盲学校に入学して勉学に励んだ。
そして20歳でラドクリフ校(現ハーバード大学)に入学し、24歳で成績優秀者として大学を卒業する。
何とヘレンは学位を取得した世界初の盲ろう者となったのだ。
その後は著述や講演などで世界中を飛び回り、多くの人々に生きる希望と勇気を与え続けた。
傍らには常に、サリバン先生が控えていた。
サリバン先生が亡くなった後も、先生の教育によって自立的に生きていたヘレンは、先生の死を悼みつつも、人々を啓蒙する事に対しては後退することなく、精力的に仕事を続けたという。
ヘレンとサリバン先生は、人が学ぶ事は、混沌とした自分自身を整理し、見つめ直し、生きる歓びが知る喜びに直結する事を経験する事で、社会貢献できるのだという事を体現して見せてくれた。
学ぶ事は生きる事、生きる事は社会貢献へとつながる道を歩むこと…だという事を、肝に銘じて生きて行きたいものじゃなあ。